特集「コメのチカラ」を進めていく意味

日本人にとって特別な食品「コメ」。私たちは、物心ついたころから茶碗に盛られた米を口にして大人になり、そして今を生きている。

今回、特集を組むにあたって関係者から話を聞いてきたが、共通するワードが出てきた。「当たり前すぎて」。そう、米はあまりにも私たちに近すぎて、実は深く掘り下げられていない食品でもある。

次回以降に出てくる識者たちは、まだまだ“発展途上”である米の可能性を見出しおり、スポーツ現場で栄養指導・サポートをする専門家らは米を有効活用している。ネガティブな声がとりわけ大きく聞こえがちな昨今、米(炭水化物)=敵・良くない物のような考えがまかり通っているが、少なくとも専門家の間ではそのような声は聞こえない。「悪貨は良貨を駆逐する」とはよく言ったものだ。

特集「コメのチカラ」では、米が持つプラスの面を伝えていく。人によっては「いやいや」と思われるだろう。だが、それでいいのではないか。食の多様化が進む中で選択肢は人それぞれ。いろいろな知識・情報を取り入れ、精査したうえで判断していただきたい。ただ、特集でこれから取り上げる人々の考えや思い・努力は、みなさんの食生活に米を取り入れるべきかの判断材料にはなるはずだ。

ともあれ、まずは歴史に触れながら「コメのチカラ」を再確認していこう。

日本に米がやってきた! 農耕派と狩猟派がせめぎ合い!?

米が「いつ」生まれたのかは正確にはわかっていないが、紀元前3000年前後(縄文時代)には九州北部で水田稲作が始まったといわれている。「渡来人が何らかの理由で日本に来た時に技術を伝授した」、もしくは「日本にいた縄文人が海を渡って技術を習得してきた」が伝来の経緯として有力視されている。

「なぜ」米作が広まったかについても意見が割れており、兵士の食糧として米を軍事利用する目的で作っていた説、生活の基盤、つまりビジネスを目的に米を作っていた説の2つ。後者の場合、「海を渡って技術を習得…」説とリンクすることになり、当時の日本にもアグレッシブでグローバルな人物がいたと想像するとロマンがある。

では、国内で米作が「どのように」伝播していったのか。これも「戦い」が関係している可能性がある。一説によれば、九州北部を始点に中国・四国を経由して近畿に伝来したのが、紀元前2600年。その間、実に約400年かかっている。その後、約200年かけて北陸・東北を進んで本州最北端に達し、さらに200年をかけて南下し、関東へと広まった。

一地域に到達するまで数百年を要しているが、これは稲作を推進する農耕派と、新しい取り組みに抵抗した狩猟派によるせめぎ合いによるものとされる。いつの世でも同じようなことは起きるものだ。 伝播に要した月日は「抵抗の激しさ」を物語るものであり、難所が多かったことを加味しても、最後まで米を受け入れなかった関東の現地民たちは凄まじい抵抗を見せたのだろう。水田稲作の文化は「侵略」の形を取りながら、長い年月を経て日本へ浸透していったのだった。

米の生産力は国力に値する、穀倉地帯の確保が天下への道

米を中心に世の中が回っていたといえるのが戦国時代。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らが覇権を握り、幕末とともにきら星のごとく人材が輩出された時代だ。

米の生産に適した土地を誰よりも所有し、多くの収穫高を確保できれば、兵士をたくさん養えるようになり、戦いを有利に進められる。いわば、覇者の基本戦略といえよう。戦国大名たちはある意味、田畑を奪う戦いをしていたのかもしれない。

農地の測量方法を全国で統一して行われた秀吉による「太閤検地」によれば、広大な陸奥国(青森県、岩手県、宮城県、福島県)の167.2万石を別格として、最も多い石高(米の収穫量)を誇ったのは近江国(滋賀県)で77.5万石。次いで武蔵国(東京都、埼玉県、神奈川県の一部)の66.7万石、尾張国(愛知県の西半分)の57.2万石、伊勢国(三重県の北2/3)の56.7万石、美濃国(岐阜県)の54万石と続く。

奇しくも、天下統一事業の先陣を切った信長の本拠地・尾張から伊勢、美濃、近江と、天下を目指す大名たちの終着地・京に続く道は日本有数の穀倉地帯になっている。信長は、京に向かう道中で穀倉地帯を次々に制圧し、国力を増強しながら勢力を拡大させていった。甲斐の虎・武田信玄、越後の龍・上杉謙信、謀聖・毛利元就、相模の獅子・北条氏康など、天下を狙うライバルたちの領地はいずれも京から離れており、道中に障害(地形、季節、宗教・抵抗勢力の存在など)もあった上、信長ほど楽に穀倉地帯を確保できる状況ではなかった。

信長が急速に台頭できたゆえんは、独創的な考えもさることながら、生まれながらにして「京に近い」という地理的アドバンテージを持っていたことにある。そして、早期に周辺の穀倉地帯を押さえたことで、他国を圧倒する兵士の動員力を得て、強大な軍団を形成するに至った。

戦国大名たちの軍事力を示すのは兵士の数。その兵士の大半は農民だった。そのため、米の刈り入れ時に戦が起こると“農動力”が失われて国力が一気に傾くことになる。謙信は、軍事行動の時期を秋の収穫後から春の田植え期までとしていたようで、米の収穫を第一優先に領国経営にあたっていたことがうかがえる。農動力の安定的な維持についても信長は対処している。兵士を本業とする集団と農民で役割を分担させた「兵農分離」を編み出し、刈り入れ時に農動力が落ちないよう、国力を底上げしていった。

この時代の戦いでは、「刈田」というかなり悪質な戦法が常とう手段で、刈り入れ時に他国に攻め入っては米など田畑の収穫物を略奪・焼き討ちにしていた。相手の戦力をそぎながら自軍を強化するのだが、兵農分離の広まりや収穫が早い「大唐米」の生産などで対抗手段が講じられ、刈田戦法はやがて優位性を失っていった。

戦に参加する兵士たちは、自分たちが作った米を兵糧にして現地に持参することを課せられていた。おにぎり(特集関連記事で紹介)は特に優れた食品で利用頻度が高かったものの、日持ちしなかったため、糒(ほしいい:干飯)や炒米(炒った米)、餅が重宝された。乾燥させた栗の実をついて殻と渋皮をとった搗栗(かちぐり)も最適な「腰兵糧」だった。このような従軍中でも食べられる栄養価の高い腰兵糧は弁当のルーツになったといわれている。

寿司、酒の起源と米が頻繁に使われる行事食

戦国末期から江戸時代以降、米は市民生活に深く根づくことになる。すでに、作業分散や災害リスクを回避するため、早生・中生(なかて)・晩生(おくて)と品種の分化がされている。この時代になると、米の種類も調理法も現在よりバリエーションに富んでいたという。特に、パサパサ感のある大唐米からモチ米まで米の粘りに幅があったことが調理法を多様化させた一因になったようだ。

米を使った日本を代表する料理の一つ「寿司」の起源は水田稲作とも関連が深い。昔の人は水田に生息する淡水魚を食用にしており、すぐに腐ってしまう魚のたんぱく質を乳酸菌のエネルギー源である米と合わせて、長期保存を可能にした。現在のような形になったのは幕末で、もともとは滋賀県で見られる「ふなずし」を原型にする発酵食品だった。発酵を可能にする技法や発酵させる利点を昔の人が知っていたことに驚く。

一部の専門家は寿司を「水田稲作民の淡水魚の保存法として成立した食品」と定義しており、水田稲作の元祖である大陸でも似たような形態の食品が存在していることから、寿司は日本固有の物ではないとしている。ともあれ、乳酸菌、たんぱく質、糖質を含む寿司は、当時も今も人の健康を支える物であったことに変わりはない。

酒も米料理の代表格として挙げられるが、紀元前にはすでに登場していたとされている。時の朝廷が酒の醸造を司る部署を作り、アルコール度を高くする麹の開発が行われた。その後、酒は宗教儀礼的要素が強くなり、寺院の僧坊に酒の自家製造を認めた。江戸時代に入ると、神戸・京都を中心に酒造の専門家が多く登場し、商業ビジネスとしての発展を見て、現在に至っている。

思えば、日本では年中行事にいつも米料理がふるまわれてきた。正月の雑煮や屠蘇に始まり、冬至の小豆粥で締めくくる。各地に残される約40のうち半数は、米、もしくは米を加工した米粉、餅などが使われている。米の端境期(古米・新米の入れ替わる時期)になると、古米を加工した米粉の使用頻度を高めて消費し、次の収穫期に備えるサイクルになっており、米が年中効率的に利用されていた。

消費量減に歯止め、新たな米の魅力を追求

第2次世界大戦で敗戦した後の日本で米は、軍事物資としての役割を失い、純粋に食糧として捉えられるようになった。参戦したことで農動力が落ちたものの、すぐに生産体制を回復させた。戦地からの帰還兵や結婚・出産ブームも手伝って人口が急増し、慢性的に米不足に陥ったため、国は米の大増産を推進して問題を解消した。約20年続いた大増産体制は米余りを常態化させることになり、量より質の米作りに方向転換していった。これが、コシヒカリなどのブランド米の誕生に紐づいていく。

終戦後は、米が大量に生産された一方、米国からの支援で小麦も大量に日本へ持ち込まれた。パンや脱脂粉乳が学校で提供されたことで、日本人の食生活に多大な影響を及ぼすことになる。農林水産省のデータベースによると、一人当たりの米の年間消費量は、ピーク時(1962年)の118kgから減少傾向が続いており、2020年は56kgと半分以下になっている。生産量も減少傾向に歯止めがかからない。

主食の一つである小麦は、統計開始の1960年から2020年まで一人当たりの年間消費量30~40kgで推移しており、実はそれほど伸びているわけではない。顕著に伸びたのはむしろ牛乳・乳製品と肉類で、前者は同量22.2kg→94.3kgと約5倍以上、後者に至っては同量6.5kg→50.8kgと10倍近く増加している(数字はいずれも1960年と2020年の比較)。米国との貿易関係が深く関連しているとはいえ、日本人にも受け入れられたからこその数字で、食の多様化による米消費の減少は時代の流れから仕方ないともいえる。

今、各家庭では米よりもパンを買う方にお金を費やす傾向を示している。パンはおいしいし、いろいろな種類が楽しめて、米のように炊けるまで待つという時間的ロスも少ない。普及するのも無理はないが、日本伝統の食文化を衰退させてしまうのも忍びない気がする。

ただ、国も米にかかわる人たちもこのまま手をこまねいているわけではない。国は消費拡大を促すために、学校給食での米食推進や健康価値の向上に取り組んでいる。研究面ではごはん食、玄米、玄米から除去されたぬかや胚芽の成分・健康機能性に関するエビデンスが構築されつつあり、消費減少に歯止めをかける動きが出てきた。今後、これらの成果がどのように食生活に反映されるのか、時間をかけて観察していくことになる。

【参考文献】
・石谷孝佑(著)ほか : 米の科学, 朝倉書店 (1995)
・八幡哲郎(監) : 戦国大名の通知表, PHP研究所 (2010)
・レニー・マートン(著), 龍 和子(訳) : コメの歴史 RICE : GLOBAL HISTORY, 原書房 (2015) 
・佐藤洋一郎 : 米の日本史 ~稲作伝来、軍事物資から和食文化まで~ : 中央公論新社 (2020)
・熊野孝文 : ブランド米開発競争 ~美味いコメ作りの舞台裏から~ : 中央公論新社 (2021)
農林水産省
・政府統計の総合窓口「e-Stat

スポトリ

編集部