連日、スポーツの名門で知られる市立船橋高校のバレーボール部の暴力問題がニュースで大きく取り上げられている。

容疑者になっている人物が指導している時と筆者の現役時代が重なるため、もしかしたら練習試合や大会などで同じ空間にいたかもしれない。記憶はおぼろげだ。

こういったニュースが流れるたびに、高校時代の記憶が鮮明に蘇ってくる。非暴力を訴えた日のことを。

数十年も前の話になるが、筆者の実体験を記したいと思う。時効なので、ここで書いても大して差し支えはないだろう。

暴力が当たり前だった時代

中学生の時にそこそこの成績を収めたチームにいたため、それなりにお誘いはあったが、自宅から近い強豪校へ進学することに決めた。結果的には、目標としていた全国大会に出場することができたので、選択は間違っていなかった。

数十年を経た今でも、その経験が縁で取材や商談諸々がうまくいったことが数多くあるし、人生に役立っていることはいうまでもない。ただ、目標達成までのプロセスにいろいろと問題があったことも事実だーー。

進路選択の段階で「あの高校はものすごく厳しい」といろいろな人から聞かされていた。「厳しい」の中に「暴力」が含まれているとは、中学生だった自分にわかるはずもなかった。

全国大会で躍動する高校生たちのユニフォーム姿をテレビで観て、単純に「カッコいい」とか「すごい」とかあこがれの方が勝っていたし、中学の先生たちからは「絶対にあの高校へ行け」と”洗脳”されていたので、頭からスッポリ抜け落ちていた。

1年生の時は試合に出られる実力もなかったため、練習でミスをしても叱られたり、手を上げられたりすることもなく、「(冗談交じりに)バカヤロウ」とか、「もっとデカくなれよ」とか、期待と優しさを感じることの方が多かったように思う。練習自体は厳しいものの、続けていればきっと成長できると感じていた。一点を除いては…。

練習試合や合宿へ行く(学校から離れる)たびに、試合に出ている先輩たちがミスをしようものなら、暴力や激しい言葉が浴びせられるのだ。まだ当事者ではなかったものの、もの凄い恐怖を感じた。

他校の中には、体育倉庫に閉じこもり、大きな罵声とともに「バチン、バチン」「ガラガラ、ガッシャン」と、ものすごい音が長時間漏れていたこともあった。暴力は伝染するのか、一人始めると、あちこちで「バチン、バチン」とこだまするようになる。

先輩たちは、暴力を振るわれても無抵抗に「ハイ!、ハイ!」と返事をするだけ。中学時代に暴力の免疫がなかった筆者は、「何で殴っているんだろう」「どうして先輩たちは黙って殴られているんだろう」と、いつも疑問を感じながらその光景を見ていた。「それほどミスって重いものなの?」と。

ずっと感じていた疑問を払しょくできないまま自分たちの代に変わり、当事者として暴力を受ける側になった。そして、いつしか暴力が嫌で嫌で仕方がなくなり、根性なしの筆者は「辞めたい」と常に思うようになっていた。

強豪校を選択した理由の一つに「大学進学に有利」があったが、辞めたとしても2年生の秋から勉強を始めれば十分間に合うとも思っていた。一応レギュラーだったので引き留められ、最終的にはチームに残る決断をした。

今にして思えば、暴力は「理不尽への耐性」をつけるための手段だったのだろう。社会に出れば、思うようにいかないことの方が多く、理不尽な暴力に耐えることで何事にも動じない強じんな精神力を養う、みたいな。

後述するが、自分たちの代は暴力を排除したので、その後の人生において、理不尽(暴力)で精神力が養われたか、その体験が役に立っているかは知る由もない。もしかしたら、40歳代以降の多くは「役立った」と感じる人の方が多いかもしれない。

だが、暴力は暴力。人を傷つける行為が人を成長させると肯定することは断じてできない。

今も存在する?「3年計画」、犠牲になる学年があっていいのか

この後の話にもつながるため、余談を挟む。

高校スポーツでは「3年計画」という言葉がある。言い方が適当ではないかもしれないし、今も存在するのかも定かではない。

要は好メンバーがそろった特定の学年だけを1年生の時から鍛え上げ、育成期間をできるだけ長く取ってチームを強化し、結果を出す考え方だ。

これに関しては一定の理解を持っている。名門、強豪校であろうと毎年いい選手が入るとは限らず、スカウティングがうまくいった学年を特別扱いし、結果を求めるのはそう悪いことではない。

だが、計画からあふれた学年はどうなるのか。実は、自分たちはこのあふれた学年に該当した。もっと言えば、2学年上もそうだった。

1学年上の主力は、全員県選抜経験者。1年生の時からレギュラーになり、手厚い指導を受け続けていた。期待が大きいから無理もない。

さらに、1学年下も県選抜経験者が多かったため、メインコーチ(レギュラー組)も自分たちを通り越して1学年下に目をかけるようになる。そして、自分たちは完全に忘れ去られた存在になった。

強化からあふれた自分たちの代は、良く言えば自由、悪く言えば放置状態。練習試合の相手、練習内容・時間は明らかに格差があり、2学年上と同じ扱いで、1学年下のオマケ。メインコーチは見向きもせず、サブコーチによる指導。

こんな状態だったから、2学年上は、チームが勝っても負けても「ふ~ん」と無関心。これは嫌だった。自分たちも同じように3年間を無為に過ごすのか。春は2回(当時は3月開催)、夏は3回しか全国大会へ行くチャンスがないのに。

この中で救いだったのが、サブコーチの存在。大学を卒業したばかりの新任で年齢も近く、1年生の時からつきっきりで指導をしてくれて、自分たちの代になってメインコーチを務めてくれた。

後に、この人物が監督に昇格し、全国大会常連校に育て上げることになる。自分たちの代は生意気なヤツばかりで手に余ったと思うが、最後まで見捨てずに見てくれたのはありがたかった。

格差を感じながら日々を過ごし、1学年上が春の全国大会予選を迎える時期になった。彼らは強豪との練習試合でも負け知らずで、専門誌は軒並み「全国大会優勝候補」と紹介するほど評価が高かった。そりゃそうだろう。

指導の格差に不満はあれど、チームが結果を出すことは誇らしいと感じていたし、何より強かったので簡単に結果が出るものと思い込んでいた。

ところが…。ふたを開けてみれば、予選敗退。しかも、1学年下が主体のチーム(このチームも3年計画)にコロッと負けてしまったのだ。

この時思ったのが、「あんなに暴力を振るわれながら、一生懸命練習しても結果が出ないんだ…」ということ。つまり、暴力を振るわれることが、精神力や勝負強さを育むわけではない。そして、何でも「ハイ!、ハイ!」と従っているだけではダメなんだと気づいた。

1学年上の予想外の敗退は、この後に起こす愚行の遠因(指導法や部活の在り方に疑問があった)にもなっている。

ちなみに、1学年上は従来通りの指導を受け続け、最後の夏に全国大会の切符を勝ち取った。優勝候補に挙げられていたが、練習試合で1度も負けたことのないチームに敗戦を喫している。

全員で練習をボイコット、親を巻き込んだ大騒動の末に…

あえて愚行と表現する。自分たちがしでかした愚行は、指導者やチームの伝統を否定するものであり、今振り返っても反省しかない。もっとやり方はあったはずだ。

だが、後悔はしていない。「自分たちで考えること」「意思を伝えること」の大切さに気づいたし、ある種の反骨心から「負けてたまるか」といった土壇場の強さは養われたと思う。

実際、1学年上とは違い、勝ったり、負けたりで勝率はそれほど高くはなかったが、練習試合で1度も勝ったことがない相手に主要大会で勝つこともあったし、逆転勝ちも多かった。少なくとも筆者は、愚行から学んだことをプラスに捉えている。

愚行は文化祭の時に起きた。自分たちの代に変わった高校2年の10月ごろだったか。練習前の部室で誰かが何の気なしに「みんなが文化祭で楽しんでいる時に、何を好き好んで練習しなきゃいけないんだ!」と発した。

見捨てられた世代とはいえ、サブコーチがメインコーチになり、熱心に練習を見てくれて、2年生3人・1年生3人でレギュラー編成された新チームは、同地区のライバル校にも負けなし。全国大会出場への道はそれほど遠くなく、チーム状態も悪くなかった。

とはいえ、従来の指導は相変わらず続いており、これまでの格差も相まって、堰を切ったように各々が不満を口に出す。そして、禁断の言葉が発せられる。「練習行くの、やめねぇか」。

弾みというのは恐ろしい。こうなっては止める手立てはない。調子のいいヤツは「自分たちだけだとヤバいから、後輩たちにも練習へ行かないように伝えてくるわ!」。こんな時だけ行動が早いヤツはどこにでもいる。

学校を飛び出してからしばらくして、自分たちがしでかしたことの重大さに気づいた。だが、今さら戻れない。学校から離れた公園で話し合うも答えは出ず、学校から一番近かった筆者の家で対応策を講じることにした。

母親から出されたジュースをみんなで飲み干して冷静さを取り戻すと、「結局話し合わないといけないんだし、自分たちの不満・希望は出そう。それでダメなら退部するしかないよな」ということになった。

そして、「暴力を振るわないでほしい」「試合の翌日(月曜日)は休みにしてほしい」「長髪を認めてほしい」の3点を伝えることにした。

今の時代、休息はパフォーマンスを上げるために大事なポイントではあるが、当時は年中無休が当たり前(今も続いている?)。1年のうち盆と正月しか休めなかった。

筆者の母親は当時では珍しく、食事にも気を使ってくれていたため、ケガをすることはなかったが、心身に余裕がない中で休みがないのは正直きつかった。

長髪はオマケで、当時高体連が「坊主頭は軍隊を想起させるため、控えるように」といったお触れを出していたことを知っていたため、要求に加えることにした。

愚行から数日経ったある日、選手と親全員・指導陣の間で話し合いの場が設けられた。このころには、もう反省しかなかった。

ある親御さんが「君たちのしたことは、監督や先輩たちが築いてきたことをすべて台無しにした。でも、暴力をもって選手を縛りつけることが果たしていいことなのか」と、監督を立てつつも自分たち寄りの発言をしてくれて、ほとんどの親御さんも同意見だった。中には暴力と精神力をひもづける親御さんもいたが、大勢に声はかき消された。

話し合いの結果、自分たちの要求はすべて通り、暴力の恐怖から解放され、心身も充実、外見は少しマシになった。監督は基本見守ることに徹し、コーチが技術的な指導をおこなう体制に変わった。不安がなくなり、練習に集中できるようになると、どんどんうまくなっていったことを覚えている。

急にできた休日は、何をしていいかわからずアタフタし、結局自主練習という形で休まずに体を動かすことにした。ただ、前日の試合で良くなかったことを振り返ったり、プレーの質を上げるために選手同士で話し合ったりして、指導者の言うことを「ハイ!、ハイ!」と聞くだけでなく、自分たちで考えて練習することの面白みも覚えた。

のびのびとプレーを楽しめるようになってからは、練習試合で負けることも少なくなった。前回優勝校(予選なしで全国大会出場権獲得)が県内にいたこと、周年記念大会で県の出場枠が増えたことで、運良く春の全国大会に出場することができた。

1学年上は夏に全国へ行ったが、注目度からいっても断然春。手厚い指導を受けていた1学年上が経験できなかった晴れ舞台に自分たちは立つ。抱き続けていた反骨心はいつしか消えていた。

期待されていなかった自分たちの代だが、接戦の末に出場が決まった時、監督が飛び上がって喜んでくれた姿を見て思わず涙ぐんでしまった。そして、1学年上のメインコーチが何ともいえない表情をしていたことも脳裏に焼きついている。

結局、春の全国(ベスト16)、関東大会(3位)と、1学年上の成績をすべて上回り、高校のコートを後にした。

自分たちの代が引退してから、従来の指導に戻ってしまったが、それは仕方ないと思っている。むしろ、屈辱を感じながらも自分たちの要求を受け入れてくれた。監督の度量の大きさは、大人になってからよくわかる。

後輩たちにとっては天国から地獄への変化だったと思うが、一緒に全国大会へ行けたのだからどうか許してほしい。

高校卒業後に取材だか、打ち合わせだかで監督を訪れたが、やはり第一声は「その節は申し訳ありませんでした」だった。でも、監督は愚行を犯した筆者の協力に対して快く受け入れてくれた。

思えば、遠征費を浮かせるために、忙しい中で大型免許を取りに行き、遠征のたびにバスをレンタカーして自ら運転して連れて行ってくれたのは監督。カットに失敗して虎刈りになった時、ゲラゲラ笑ってくれたのも監督。一定の距離はあったが、悪くない関係だったと思う。

しかし、暴力一つで霧がモヤッとかかってしまい、心の距離は一気に開いてしまうのだ。

当事者同士の解決は困難、親御さんは積極的介入を

暴力問題は、振るう側と振るわれる側だけでは解決しない。両者の間で絶対的な上下関係が成立しており、選手は逆らえないからだ。

そこに、親御さんが介入することで上下関係を対等にし、問題を提起し、解決に向かう。それ以外(特にマスメディア)の介入なんて問題の根本解決にはならず、クソの役にも立たない。

今、元バレーボール女子日本代表の益子直美さんが、「指導者のアンガーマネジメント」のようなことを熱心におこなっている。素晴らしい。問題の根本を断つことは解決の一つだし、取り組みには大いに賛同・共感する。

しかし、残念ながら、「撲滅」をうたっているものに終わりは見えない。指導者がいくら叱らない、怒らない、暴力を振るわないように心がけていても、やはり人間。タガが外れることはある。いっこうに暴力問題がなくならない歴史の流れがそれを物語っている。

繰り返すが、自分たちの愚行は間違いだった。ボイコットを人質に指導者側に不利な交渉を迫っているわけだから、卑怯なやり方この上ないし、胸を張れたものでもない。

でも、暴力を甘受し、3年間しかない高校生活を無駄にしたくはなかった。幸いだったのが、自分一人ではなく、仲間も親も同じことを感じていて一緒に問題を解決するために動いてくれたことだ。

もし、暴力に苦しんでいる部活動生がいたら、逃げてもいい。言い方が悪いか。いったん退こう。有名な兵法家・孫武(孫子)も「三十六計逃げるに如かず(逃げるが勝ち)」と、退くことを戦略に組み込んでいる。

ただ、退いた後に、次の行動へ移すことこそが大事。孫武もそう残している。行動といっても、SNSでさらしたり、マスメディアに頼ったりするのはダメ。一方送信になり、事態が複雑化する。

行動に移す時は一人ではなく、誰かと一緒にがいいだろう。それが、仲間でもいいし、親でもいい。そして、親御さんは相談されたら、どうか最後まで味方になってあげてほしい。頼りになるのは親御さんだけなのだから。

嫉妬、悔恨、懺悔の入り混じる、暴力が当たり前の時代に非暴力を訴えた遠い昔の話でした。

スポトリ

Kiyohiro Shimano(スポトリ編集部)