鉄人レース「トライアスロン」で早い時期から世界の舞台を経験し、現在東京五輪日本代表の最有力となっている高橋侑子選手(富士通)。生まれ育った東京の地で開催される五輪への出場に並々ならぬ闘志を燃やす。幼いころからトライアスロンに親しんできた、生まれながらのトライアスリートは、高い壁にぶつかりながらも自ら考え、環境を変えることで常にステップアップしてきた。<写真提供:高橋侑子後援会>
父親が元トライアスリートだったことから、高橋のトライアスロン人生はスタートする。
「父の影響で兄と妹も小さいころから泳いだり、走ったりしていたので、いつの間にかトライアスロンをしていましたね。『やれ』と言われたこともないですし、トライアスロンを始めた当初は遊びみたいなものでした。高橋家の家族イベントのようなものでもあって、家族そろって週末に出かけ、ついでに大会に出場する。勝つとかそういうのではなくて、家族そろってみんなで楽しんでいた記憶があります」
トライアスロン=楽しいもの。まさに遊びの延長で、近所のプールで泳ぎ、公園で走り、子供用自転車にまたがって疾駆する。とにかくトライアスロンに夢中だった。高橋がトライアスロンを始めた約20年前は、ランナーやバイカーはおろか、トライアスロン自体を知る人もやる人も少なかった時代だ。
「泳ぐ・こぐ・走る」遊びから、競技として捉えるようになったのが、小学校高学年のころ。「泳ぐ」ことから真剣に向き合うようになった。走るのも好きだったことから、中学進学を機に陸上部に入部した。自分では、両方の競技をすることで好影響を及ぼし、記録や成績がぐんぐん伸びると思っていた。ところが、思った通りにいかない。
「タイムが出ない、上位に食い込めない。あのころは全然うまくいかなくって。原因は何なのかを真剣に考えましたし、このままでは駄目だ、何かを変えなければと思っていました」
初めての壁。小さいころから慣れ親しみ、楽しい遊びだったトライアスロンを本気でやってみようと思った。中学3年時に、東京都稲城市のトライアスロンチームに入り、朝は水泳、日中は部活動で長距離を走り、週末は自転車と、本格的に3種目を練習することになった。
そのころから、陸上も水泳も成績が伸びていき、間もなくトライアスリートとして出場したJOCジュニアオリンピックでいきなり優勝。生まれながらのトライアスリートが才能を開花させた瞬間だった。
桐朋女子高等学校進学後はトライアスロン中心の生活になり、部活でラン、クラブでスイム、バイクと練習を積んでいった。陸上の大会にはタイミングが合えば出場していたが、好成績を挙げるには至らなかった。しかし、トライアスロンでは違った。高校1年生からエリートとともに日本選手権に毎年参戦し、日本代表として19歳以下のカテゴリでアジア選手権、世界選手権に出場するまでになっていた。
「ラン、スイムと個々の競技で、私は強い選手ではなかった。でも、バイクを加えた3種目の総合力(トライアスロン)なら十分勝負になると思っていました。スイム、バイク、ランをずっとまんべんなく練習してきたのが良かったかもしれませんね。運良く早い段階で世界を知ることができたので、トライアスリートとして生きていく覚悟がこのころ決まりました」
世界を見据えた戦いに身を置く一方、高橋は頭打ち感を覚えていた。「前進するためには何かを変えなければ」―またしても、この前向きな思いは高橋の成長を促す。歩みを決して止めることはない。
高校卒業後、単身オーストラリア・キャンベラへ渡り、地元のトライアスロンチームに加わった。オーストラリアはトライアスロンが大変盛んで、子供から大人まで楽しめる環境が整っており、もともと海外志向が強かった高橋は異国の水にもすぐに慣れ、充実した日々を送っていた。
海外と日本を往復する中で、「大学に行きたい」「スポーツをさまざまな角度から勉強したい」という気持ちが芽生え、渡豪の1年後、スポーツ健康科学部が新設されたばかりの法政大学に入学した。法政大学は競泳の名門で、レース展開にも大きく影響するトライアスロン最初の種目・スイムを重要視していた高橋にとって、腕を磨くにはうってつけの場所だった。
ランは他大学との合同練習やキャンパス内でのランニングなど、自ら交渉して練習環境を確保。専任のコーチはついていなかったが、大学レベルのスペシャリストたちと一緒に練習することで刺激を受けた。試行錯誤しながらも、周囲の温かいサポートを受けて前に進んでいく。
「周囲の方々には本当に良くしてもらって。私は恵まれているなと思います。中、高の時もそうでしたが、『いつでも練習においで』と温かく迎え入れてくれる指導者、チームメイトに支えられて競技を続けることができましたし、今でも支えてくださる方々がいる。本当にありがたいです」
「基礎を磨く大事な時期」と捉え、スイム、バイク、ランの底上げに徹底した大学時代。卒業後も練習環境を変えず、世界大会、国内大会に出場し、実戦勘と経験を積んでいった。来たるべき大目標、リオ・デ・ジャネイロ五輪出場のために。
当時の女子トライアスロン界は多くの選手がせめぎ合い、代表選考争いがし烈を極め、五輪直前になっても代表が決まらなかった。紆余曲折の末、高橋がブラジルに行くことはなかった。「納得のいく内容ではなかった」と高橋自身は振り返るが、その目はすでに東京を見据えていた。
「東京五輪に出場するためにはここで何かを変えなければ」と奮い立ち、2016年末、拠点をアメリカ・サンディエゴに移すことにした。コーチ探しも自分で行い、アメリカで長く指導歴のあるポルトガル人のパウロ・ソウザ氏に決めた。ソウザコーチとは何でも言い合える仲で、「何か問題があれば、必ず言いなさい。大きな問題になる前に対処するから」と高橋を心身でサポートしてくれる。
海外に拠点を移すことで、トップ選手と一緒に練習できる環境を手に入れることにもなった。どの競技でもそうだが、他の選手はみなライバル。トライアスロンも例に漏れないが、トレーニング面では国の垣根を越えて世界のトップ選手同士でグループを組んで行うことは珍しくない。2017年から高橋もトップ選手のグループに加わり、行動や考え方を吸収しながら自分のパフォーマンスアップにつなげている。
信頼できるコーチ、チームメイトが近くにいて、しっかりと練習に打ち込める毎日を「ただただ楽しい」と表現する高橋。これまでにない良い環境を手に入れ、東京五輪挑戦へと歩を進めていく。
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