強豪私学でも、特別なスカウティングでもない。
1990年代前半、無名だった公立校が高校バレー3冠1を達成――当時の常識を覆す出来事だった。
体育館が満足に使えない環境からスタートし、未経験者を鍛え上げ、創部から10年足らずで全国レベルの強豪へと成長した。
科学的トレーニングと徹底した検証、選手との対話。その根底にあったのは、「昔からこうだから」という発想を拒む姿勢だった。
連載「指導者たちの心得」第9回は、神奈川県立釜利谷高校、順天堂大学、武相学園中学・高校を率いた蔦宗浩二監督。前編では釜利谷時代までを振り返る。
※蔦宗監督は2025年12月21日に死去。本記事は同月17日の取材を基に構成し、生前の所属先である武相学園、蔦宗監督のご家族の確認・了承を経て公開。釜利谷時代の写真はご家族からの提供。
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Kiyohiro Shimano(編集部)
蔦宗監督率いる釜利谷高校のライバル校に所属し、1994年春高バレーに出場。スポトリ運営・編集責任者。
中学生のころから芽生えた指導者意識
編集部・島野(以下、島野) まずは、監督ご自身のプレー歴を教えてください。
蔦宗浩二監督(以下、蔦宗) バレーボールは中学からだな。
体操部が強くて、同級生2が県大会優勝とか華々しく活躍するもんだから、負けじと頑張った。
指導者がいなくて俺が練習をつけていたけど、思うようには強くならなかったな。
それで、高校は強いチームでやりたいと思って、当時全国大会常連だった法政二高(神奈川県)へ進んだんだ。
でも、監督が選手に任せるスタイルだったから、自分たちで練習メニューを作ってね。春高3もインターハイ(IH)も出たけど、練習をつける方だった。
島野 その時からすでに〝指導〟をしていたんですね。
蔦宗 学年お構いなしに鍛えていた(笑)。
上級生がすごい選手ばかりだったけど、みんなどこかチャランポランしていて、「気合を入れろ!」って丸刈りにさせたこともあった。
何せ、監督が練習に来ないから、自分たちでチームを管理するしかなかったわけだ。
島野 高校卒業後は順天堂大学へ進まれました。この時も高校と同じ感じでしたか?
蔦宗 そうだな。ただ、大学ではチームや選手の強化、身体能力や技術の向上とか、すべてが研究対象になる。
俺はトレーニングの研究をしていたからな。バレーに適した体を作るにはどうしたらいいか、どう動けば良くなるか、新しい戦術はないかを常に考えていたんだ。
バレーの指導は中学生の時から数えて50年になるけど、もともとはトレーニングの研究者なんだよ。
指導のスタートは野球部、のちの高校野球名将と同僚に

島野 大学卒業後は研究者になる道もあったんですね。
蔦宗 本当は大学院でトレーニングの研究を続けようと思っていたんだけど、神奈川県の教員採用試験に受かったから、教諭になったんだ。
指導の現場に出てこそ、得られるものがあるとは思っていたよ。
島野 意外だったんですけど、釜利谷が最初ではなかったんですね。
蔦宗 そう。最初の赴任先は厚木東高校。女子校から共学に変わったばかりで、男子生徒が少なかった。
1年目は野球部の監督をやっていたんだけど、校長にお願いして次の年からバレー部に移ったの。
それで、俺の後任になったのが上田誠4さんだ。上田さんも俺も相当選手を鍛えていたから、野球部とバレー部だけが夜遅くまで練習していたもんだよ。
最初は全く強くなかったけど、最終的には関東大会出場(県ベスト8)まで行ったかな。
島野 「神奈川を制す者は全国を制す」といわれていた時代で、上位に食い込むのは難しかったと思います。
蔦宗 そうね。厚木東が急に強くなったもんだから、新設したばかりの釜利谷の校長先生に声をかけられて、「バレーを校技にする。全国一の強豪校にしたいから、釜利谷に来てほしい」って。
まぁ、すぐには無理でも、5年あれば何とかなるかなとは思っていたよ。
研究と実践で築いた釜利谷バレーの土台

島野 釜利谷が頭角を現した時、その名前の響きから「カマリヤ? 外国のチームか?」と勘違いしたものです。
それほど名前が知られていませんでしたが、監督就任時はどういう状態だったのでしょうか?
蔦宗 強豪校はずっと体育館が使えるでしょ。釜利谷はそうじゃなかった。
週6日は外練習。冬なんて16時になると真っ暗になっちゃうから、工事現場用の照明で明るくしてさ。
体育館も狭くて、コート(縦18m)もギリギリ。
島野 公立校の典型的な体育館でしたよね。メンバーは有望な選手を集めたんですか?
蔦宗 とんでもない! 唯一オーバートスがまともな子をセッターにしたけど、みんなバレー未経験の子たちばかり。
バレーの基本は対人レシーブなんだけど、それもままならない。スパイクを打ってもボールが後ろに行っちゃうんだから(笑)。
次の年からは運動能力の高そうな子を校内でスカウトして、チームを底上げしたんだよ。元気良く返事をする子も積極的に入れていたかな。
島野 選手集め、未整備の環境…まさに0からのスタートですね。
それでも、創部からほどなくして関東大会出場、IH予選ベスト4と県内で台頭しました。
蔦宗 とにかく徹底的に鍛え上げたもの。
当時、釜利谷はヤンチャな高校だったから、他の生徒と接触させないように昼休みも練習。昼食は空いた時間に食べろって。
まず体を作らないと話にならないから、バレーに必要な能力だけを重点的にトレーニングしたんだ。技術練習は後回し。
でも、やり続けていくと、ジャンプ力が30cm上がったとか、どんどん選手たちが成長していくんだよ。
一日中練習してさ、帰るのも毎日23時過ぎ。帰りにみんなでハンバーガーを食べるのが日課だったな。
あそこまで練習するチームは少なくとも、俺の知る限りでは全国でどこにもなかったと思う。まぁ、今ならアウトだな(笑)。
島野 確実に成果の出るトレーニングを施すのは、理論と根拠がないと難しいと思います。
蔦宗 俺は研究者だから、「すべてが研究対象」っていうのはずっと変わらない。
厚木東の時、スピードを上げればいいのか、トレーニングをどのくらいやればいいのか、どのくらいの負荷をかけるとケガのリスクが上がるのかとか、あらゆるデータを取っていたんだよ。
当時、トレーニングをチームの強化に生かそうとした指導者はほとんどいなかったと思う。
蓄積したデータに、選手たちの身体能力の変化や身長の伸び具合を踏まえて、バレーに適したトレーニング方法を構築したんだよ。
厚木東でのエビデンスを釜利谷で生かした感じかな。
島野 短期間で強くなった理由は、体づくりを優先したことにあったわけですね。
実戦とトレーニングのバランスはどう考えていましたか?
蔦宗 釜利谷の学区内の中学って、レベルが高いんだよ。当時は、毎年のように関東・全国大会へ行っていたかな。
中学の先生たちが全面的に協力してくれてね。土日は練習試合の相手になってくれたんだよ。
その縁もあって、強豪中学の子たちが釜利谷へ来てくれるようになって、選手の質も年々上がっていた。
島野 1991年に初めて春高・IH(ともに3位)に出場しましたね。
190cm前後の選手が多く、ニューヨークの超高層ビル群になぞらえて「摩天楼軍団」と呼ばれていました。
蔦宗 当時、藤沢・横須賀地区の選手は大きくて、川崎・横浜地区はそんなに大きくないけど、運動能力が高い。感覚的にはそんなイメージがあった。
(横浜地区出身者が多い)釜利谷は、最初から身長が大きかったわけじゃなく、トレーニングと食事で大きくしたんだ。(栄養編で解説)
ある程度年数を重ねるとデータも増えていくし、自分の理論も研ぎ澄まされていく。それを基に、「背を高くしたチーム」だったんだよ。

最強「摩天楼軍団」、高校バレー3冠の真実

島野 高校バレー3冠を果たした1993年のチームは圧巻の強さで、完成度は群を抜いていました。
蔦宗 あのチームは、全国で勝つのが当然だと思えるように育ててきたんだ。
全国3位になったあたりから、キューバ、ロシア、中国とか強豪国から招待を受けるようになったし、大学生ともよく練習試合をやっていた。だから、高校生ではもう相手にならなかったんだよ。
彼らには、技術練習やトレーニングはもちろん、潜在意識のトレーニングをさせていた。
内面で思ったことがプレーに出てくるから、「自分たちは強いんだ」と確信させる。その意識が、苦しい場面での判断やプレーに直結していた。
いわゆる、マーフィーの法則5だな。チーム全体として、その雰囲気はあった。

島野 確かに、試合中も慌てる様子がほとんどなかった印象です。長身の選手が多く、スパイクもブロックも破壊的でした。
長身の選手は一般的に、体の構造からレシーブが苦手といわれていますが、その点も洗練されていましたよね。
蔦宗 レシーブで一番大事なのは目なんだ。ボールが自分の視野に入っていればいいんだよ。
島野 「腰を低くしろ!」ってよく言われていましたが…。
蔦宗 その意味はないんだな。
ツーメンやスリーメン6のレシーブ練習は平面でやるから、打ち手とレシーバーは同じ目線になる。
でも、試合では、ネットの上(3m以上の高さ)から打たれたボールをレシーブしなくちゃいけない。
スリーメン練習なんかは、打たれる角度が実戦より低いから、腰を低くすればレシーブできる範囲が広がるだけなんだ。
「腰を低く」というのは、あくまで練習を想定した考え方で、実戦で目線が下がると、かえってレシーブの効率は落ちる。
だから釜利谷では、最初から実戦に近い目線での守備を徹底していた。
大学生の時に、練習と実戦時の目線の違い(ブレ)に気づいて、ツーメンやスリーメンをあまり重視しなくなっちゃった。
島野 釜利谷の選手たちで、腰を落として構える選手はいなかったように思います。
蔦宗 そう教えていたからな。レシーブ力を上げるなら、「速く動け」ってこと。
言い換えると、動体視力・反応速度を高めればいい。そういうトレーニングをかなりやっていた。
あとは、体に当たったボールの勢いをどう殺すかが、レシーブでは重要なんだ。

島野 そういえば、パンッと弾くようなレシーブも独特でした。守備力の高さはそこにあったわけですね。
そして、ミスが少なく、安定感もありました。
蔦宗 そこは会話だな。例えば、「今の試合でダメだったポイントは?」って話を振る。
選手たちは、質問されるのがわかっているから、あらかじめ答えを用意する(考える)。
この時、その場をとりつくろうような回答は絶対させなかった。そんなの成長につながるわけないんだから。真実だけを言えってね。
選手たちはダメだった部分を自分なりに追究し続けて、プレーを改善していく。この積み重ねなんだと思うよ。
島野 釜利谷の選手たちはノートを持っていましたよね。それも何か関係がありますか?
蔦宗 そう。あれは「創意工夫練習ノート」っていうんだ。
順天堂大学(釜利谷離任後に監督就任)でも、武相(2021年に監督就任)でも選手に書かせているよ。
選手たちは「試合に出る・活躍する」という目的のために、自分が何をすべきかを考えながら練習に取り組まないと。
一人ひとり何を考えているのかを把握して、俺がコメントしてノートを返す。
書いたことが実践されているか、間違ったことをしていないかとか、選手たちのバレーへの姿勢、練習の取り組み方を評価する点でも役に立った。
あと、しょっちゅう新しい練習方法、戦術を考える会みたいなのを開いて、「オッ!」という案を出した選手には景品をあげていたな。
島野 釜利谷も、当時の高校スポーツ界に多かった〝力で抑える指導〟とばかり思っていました。それとは全く逆で、今でも通じる理論的な指導をされていたんですね。
蔦宗 そもそもとして、技術練習やトレーニング、それこそ選手との接し方も、「昔からやってきた」「これまでの指導方法が正しい」って時代だったの。
俺はそこに疑問を持ったんだ。「固定概念」ってやつだな。
バレーに対する固定概念っていうのはあるんだけど、それを捨てたことが全国優勝するための道だったんだなと改めて思うよ。
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関連書籍
本稿で紹介した理論や指導観の背景、実践例の詳細は著書に詳しい。本書では、ここで触れきれなかった育成哲学やチーム作りの具体像も描かれている。

- 春高、IH、国体(現:国スポ)の高校主要3大会を同一年度にすべて制することを指す。達成は極めて困難とされる。国スポは通常、各都道府県選抜でチーム編成されるが、高校単独で出場する場合もある ↩︎
- 体操指導者・白井勝晃氏。体操金メダリストの息子・健三を育成した ↩︎
- 全国高等学校バレーボール選抜優勝大会(現:全日本バレーボール高等学校選手権大会) ↩︎
- 1991年から2015年まで慶應義塾高校野球部を率い、髪型自由などの自主性を重んじる指導で、春夏通算4回の甲子園出場に導いた ↩︎
- アイルランド出身の宗教家・著述家、ジョセフ・マーフィーが提唱した、「潜在意識に抱いたイメージは必ず現実化する」という成功法則 ↩︎
- 強打やフェイントを2人もしくは3人でレシーブし続ける、バレーの代表的な守備練習 ↩︎























