編集長が取材や編集の裏側で感じたことを、3分で読めるボリュームでまとめた「サクッと取材メモ」です。
中澤先生のインタビューは前編・後編があります。あわせてご覧ください。
前編»|後編»|取材メモ #02»|特集:部活動と暴力問題»
なぜ今、このテーマを取り上げるのか
部活動の暴力問題は、2012年末の桜宮事件以降も途切れることなく続いています。
今年も広島(野球)、秋田(バレーボール)で事案が報じられました。特に秋田のケースは、私自身が30年前に経験した手口とまったく同じで、言葉を失いました。
暴力は、表面化した事案の何倍もの数が水面下に存在します。「競技が嫌いになった」「自分を責め続ける」「大人を信用できなくなる」――その影響を受けるのは、いつも選手や学生たちです。
これを見過ごすわけにはいきません。今回の特集は、その強い思いから始まりました。
暴力絶対反対—これは自身の原点でもある
私の現役時代は〝暴力最盛期〟で、ミスをするたびに殴られる場面を何度も見てきました。
当時、私の先輩たちは暴力を受けながら指導されたものの、良い結果が出ませんでした。それを目の当たりにし、「暴力って、本当に意味があるのか?」と疑問を持ちました。
そして、私たちの代では暴力を排除し、状況が大きく改善した経験(詳しい内容はこちら)から、私の中に「暴力絶対反対」という揺るがない軸がつくられました。
今回の取材では、「自分が感じていたことは正しかったのか?」という確かめの意味もありました。
大手メディアでは報じきれない〝構造〟がある
速報性に優れる大手メディアは、どうしてもニュースを〝点〟で扱います。数日経てば別の話題へ流され、原因や構造まで深掘りされることはほとんどありません。
私も現場を経験してきたので、その限界も事情も理解できます。だからこそ、誰もやらないなら編集部として取り組むべきだと感じました。
歴史と制度が生む〝過剰な当たり前〟
暴力問題を語るには、歴史と制度の積み重ねを理解することが不可欠です。中澤先生への取材で、その構造が改めて見えてきました。
・戦前の規律訓練と軍隊文化
・戦後、退役軍人が学校指導に入った影響
・人気競技の肥大化
・テレビドラマがつくった「愛のムチ」の美化
これらの歴史が折り重なり、暴力を再生産する構造が形成されてきました。1970〜80年代には部活動が半ば義務化され、「荒れた学校の管理手段」として暴力が容認された時期もあります。
この背景を知らずに、いまの問題は語れません。
「体罰」と暴力の認識
印象的だったのは、「暴力」と「体罰」の区別です。
私が「暴力」と言うのに対し、中澤先生は教育行政の定義に沿って「体罰」と慎重に使い分けます。
その姿勢には、教育者としての誠実さと用語への責任がありました。
この〝言葉のズレ〟が現場の認識を曖昧にし、「指導だから」「仕方ない」という誤解を生んできたのだと痛感しました。
最後に
取材中の語り方から原稿確認の細部に至るまで、中澤先生の姿勢は一貫して丁寧でした。そこに、研究者としての誠実さを強く感じました。
本稿では、「なぜ今回の特集を組んだのか」という編集側の問題意識を整理しました。取材メモ #02では、議論の中で見えてきた〝具体的な論点〟と雑感を紹介します。
あわせてご覧いただければ幸いです。





















