取材の裏側を伝える「サクッと取材・編集メモ」です。編集長が取材・編集を通じて感じたことや思ったことを、3分で読めるボリュームにまとめました。

米国の学生スポーツ事情に精通する在米スポーツライター・谷口輝世子さんのコラムも合わせてご覧ください。
#04谷口輝世子さん連載記事一覧取材・編集メモ

「法」で体罰の規制を図るアメリカ

日本で部活動の体罰が問題になるたび、メディアや声の大きな部外者にあおられ、議論は「あいつが悪い」「学校の対応が不十分」などに収束していきます。

それ自体は避けて通れません。ですが、その議論は問題の本質に近づいているといえるのでしょうか。

米国では、体罰の是非そのものよりも、「どこまでを許容するのか」「誰が決めるのか」「その過程がどれほど透明か」という点が明確で、議論の深さが違うと感じます。

「体罰が法的に一律で禁止されていない州がある」という事実だけを見ると、時代遅れに感じる人もいるでしょう。しかし、そこに無秩序が放置されているわけではありません。

ごく一部ではありますが、校則や運動部規則には、違反と罰が細かく定められ、例外的に体罰を含む場合であっても、保護者の書面による同意や手続きが前提になります。

感情に任せた指導や、場当たり的な「罰」が入り込む余地は、制度上極めて限定されます。

日本でルールを作る立場、つまり法を定める政治の舞台ではどうでしょうか。

スポーツ界出身の国会議員は複数いますが、この問題が法整備を含めて本格的に議論された形跡は、ほとんど見当たりません。

現場や事情をよく知るスポーツ界出身の議員がいるのに、「なぜやらない」と大きな疑問符だけが頭に浮かびます。

おそらく国会議員になった理由は別のところにあるのでしょう。

ミスへの暴力は即アウト、日本があいまいにしてきた線

特に印象的だったのは、試合中のミスに対する暴力は、いかなる場合でも「虐待」とみなされるという点です。

これは、日本の部活動で長年、意図的に隠されてきた部分です。

私自身、プレーのミスとは関係なく、「親の仇みたいな目で見るな!」という理由で殴られる場面を何度も見てきました。

さすがに今はないと思いたかったですが、昨年起きた秋田の事例はこれとほぼ同じで、到底指導とはいえません。

指導者による暴力は確実に減ってきているようにみえます。

それでも、「勝負の世界だから」「本気だから」という言葉の裏で、何が許され、何が許されないのかは、いまだあいまいなままです。

元選手が「怒らない」を指導者に教育しているようですが、それで根本が解決するとは思えませんし、他に思惑があると勘ぐっています。

必要なのは、線を引くことです。

「厳しさと強要は別物」という前提

厳しいトレーニングと強要との違いをどう考えるか。

苦しい練習そのものを否定するのではなく、事前の説明と同意、専門職による監視、そして途中でやめる自由が担保されているかどうかが問われます。

この考え方は、努力や根性を美徳としてきた日本のスポーツ文化に対し、静かですが、鋭い問いを投げかけているように思いました。

また、記事の中で指導者が持つ信念として「技能向上として 研究に基づいているもの適切な内容か」「負の強化(体罰による強制)として使っていないか」とありました。

今なお、暴力を是としている指導者に対して突きつけたいものです。

私は、米国の制度を理想ではあるものの、そのまま全面的に受け入れろと言っているわけではありません。

ただ、暴力が起きてから糾弾するのではなく、起きないようにルールを決めておくことを考えた方がいいと思っています。

日本のルールとされているものは、いくらでも抜け道が存在していると感じます。

部活動と暴力の問題を、感情論や個人攻撃から切り離し、ルールと制度の問題として考えること。

それが、「指導者の暴力」を終わらせるための、最初の、そして最も現実的な一歩だと、私は思います。

ルール作りの本気度が感じられず、本来優先すべき問題を後回しにする日本は、スタートラインにも立てていないのではないでしょうか。

スポトリ

Kiyohiro Shimano(編集部、ISSNスポーツニュートリションスペシャリスト)