取材の裏側を伝える「サクッと取材・編集メモ」。編集長が取材・編集を通じて感じたことを、3分で読めるボリュームにまとめました。
蔦宗浩二監督の指導哲学を体系的にまとめた前後編も、あわせてお読みください。
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Kiyohiro Shimano(編集部)
蔦宗監督率いる釜利谷高校のライバル校に所属し、1994年春高バレーに出場。スポトリ運営・編集責任者。
蔦宗先生が高校バレーに帰ってきた
蔦宗先生が武相を指導していると知ったのは、昨年11月だった。
以前取材した慶應義塾高校の動向を追い、春高神奈川県予選の動画を何気なく流していると、思わず声が出た。
「あれ……蔦宗先生?」
順天堂大学で指導していることまでは知っていたが、高校バレーの現場に戻っているとは想像していなかった。
画面の向こうには、武相を率いる蔦宗先生の姿。その瞬間、頭をよぎった。
「またゼロからチームをつくって、強くしたのか」
決して強豪とはいえなかった武相は、すでに県上位に食い込む存在へと変わっていた。
無名校を土台から強化していく。その過程が、かつて釜利谷を全国レベルへ引き上げた姿と重なって見えた。
「どんな指導をすれば、チームはここまで変わるのか」
「釜利谷時代といまの指導に違いはあるのか」
好奇心は一気に高まり、すぐに取材依頼書を作った。
数日後、電話で快諾をいただいた。気づけば1時間近く昔話に花が咲いていた。その言葉の端々から、これまで抱いていた印象とは異なる指導観が伝わってきた。
余談だが、取材が決まった直後、高校時代のチームメイトから20数年ぶりに連絡が入った。
「蔦宗先生を取材するんだって?」
なぜ知っているのかと聞くと、「息子がお世話になっていた」と言う。さらに後輩の息子も武相の選手で、保護者同士のつながりから話が回っていたらしい。
「知り合いの子がいるかも」と何となく予感はあった。だが、現実になるとは思っていなかった。
二度の「まさか」から始まった取材だった。
誤解していた指導者像
対戦校の選手として見た蔦宗先生は、「ベンチから声で圧を与える監督」。
試合で好調な選手の名前を連呼して「あいつが打ってくるぞ」と揺さぶる。よく通る声だっただけに、コートに立つ側からすれば、たまったものではない。
正直に言えば、当時はあまりいいイメージを持っていなかった。
「どうせ、他のチームと同じように、理不尽な指導で選手をゴリゴリに絞ったのだろう」と、どこかで決めつけていた。
だが、全く違った。
トレーニング研究に裏打ちされた理論、意図を言語化する力、そして選手と徹底的に向き合う対話――。
そこにあったのは、自分が受けた感情論(根性論)の指導ではなく、理論で積み上げる指導だった。
「そりゃ、強くなるわ」。率直に思った。
理論と対話の積み重ねこそが、チームを変えていた。
そして、武相でも環境に合わせ、方法論をアレンジしながら強化を図っていた。
時代や環境が変わっても、指導の芯はぶれないのだ。
理論と人を残した名将
取材直後だった。チームメイトから届いた一本のLINEで、蔦宗先生の急逝を知った。
数日前までの言葉が、急に遠く感じられた。後日、追加で取材をする予定だった。
蔦宗先生は著書も残されている。スポトリは決して大きな媒体ではない。追悼として記事を出すことに意味があるのか。正直、迷った。
それでも、読者に届けるべきだと思った。
何より、取材の終わりにおっしゃった「俺の考えを少しでも残しておきたい」。その言葉が頭から離れなかった。あの濃密な時間を、なかったことにはできなかった。
記事では触れていないが、蔦宗先生は一貫して小学生などを対象にしたバレーボール教室を開いていた。
チームと地域コミュニティを通して、バレー界の未来をつなぐ意志を行動で示していた。
過去に取材した野村克也監督は、こう語っている。
「人を残してこそ、一流の指導者なんだ」
蔦宗先生は、日本代表の千葉進也、越谷章(ともに釜利谷高校)、藤井直伸(順天堂大学)らをはじめとする多くのVリーガーを育てた。
教室を通じてバレーの楽しさを知った子どもたち、各地でチームと選手を育成する指導者たちもいる。
スポーツの世界で、勝敗や実績は時間とともに更新されていく。直近で結果を出している指導者にばかり、光は当たりがちだ。
だが、指導者の価値は「誰を育て、何を残したか」で決まる。
育てた選手や指導者がいまも現場に立ち、理論が受け継がれている。それこそが、蔦宗先生が残したものだ。
最後に、蔦宗先生のご冥福をお祈りするとともに、公開までに協力いただいた蔦宗先生のご家族、保護者のみなさま、武相学園に改めて感謝申し上げます。
























