東京五輪2冠女王の食意識、栄養学を探求するため研究の世界へ 【競泳・大橋悠依さん ～後編～】

東京五輪200・400m個人メドレーで、女子競泳史上初の２冠を制した大橋悠依さんは、昨年開催されたパリ五輪後に約20年間の競技生活にピリオドを打った。2025年４月からは、母校の東洋大学大学院でスポーツ栄養学を専攻し、競技生活で大いに役立ててきた食をさらに追求する。

後編は、食事を含めて現役時代に取り組んでいたこと、水泳界と栄養に関することを中心に紹介する。【前編を読む】

現役時代の食生活とトレーニング

編集部　まず、世界の頂点に立った大橋さんの内面を探っていきたいのですが、ご自分の性格をどのように分析されますか？

大橋悠依さん（以下、大橋さん）　そうですね。とてもネガティブです（笑）。

編集部　それは意外です。みじんも感じませんが…

大橋さん　そうなんですよ。ポジティブではないんですが、自分で調べたり、取り組んだりすることは好きですね。東京五輪前の2017年あたりから、自ら動くことを意識したことで、うまく進んで行った気がします。

編集部　スポーツ選手はメンタルトレーニングなどで試合前の準備を整えるようなこともしますが、その点はいかがですか？

大橋さん　メンタルトレはしませんでしたね。でも、睡眠はめっちゃ大事。寝不足になるだけで、気持ち的に苦しい感じになりますから。

練習で疲れて自然に寝られる時はいいんですが、どうしても眠れない場合は国立スポーツ科学センター（JISS）で導眠剤を処方してもらっていました。

編集部　食事はメンタル面でも影響があると思います。スポーツ選手の中でも「食事が楽しみ」と感じる人もいれば、食べたい物を我慢して節制するなど、ある種の義務感のように捉えている人もいます。大橋さんはどちらですか？

大橋さん　もともと食べることは大好きなので、義務感みたいなものはなかったですね。

編集部　やはり、「食べられる人は強い」は本当ですね。

大橋さん　ただ、日本代表に入ったころ（大学４年時）は、食べても食べても体重が増えないことがあって、苦しんだことはありますね。お腹いっぱいなのに、食べなきゃって。

編集部　増量の話が出ましたが、競泳選手が体を大きくする意味というのは？

大橋さん　試合の日には多い時で一日６回ほど泳ぐ時があって、そもそも体力がないとこなせないんです。練習時間も長いので、それに耐えられるような強じんな体、体力が求められます。

出力の最大量を伸ばすことで、パフォーマンスを落とさず、ハードな日程にも対応できる。そういった意味で、増量をする必要があります。

編集部　確かに、世界では男女とも比較的大柄な選手が強いですからね。体を作り上げていく中で、大橋さんのトレーニングメニューはどのようなものなんですか？

大橋さん　一日でいえば、ストレッチから始まり、陸上トレで１時間ほど、その後プールで２～３時間に泳ぎ続けます。腕や足、背筋など全身の筋力増加が推進力につながっていくので、筋力トレーニングも週２回やっていました。

編集部　体を大きくする、筋力を上げる、長時間の練習…体の素になる食品の摂取やエネルギー補給も戦略的に考える必要がありますね。

大橋さん　私もそうですが、周囲の選手もプロテインは欠かさずといった感じですね。それ以上に、補食（エネルギー補給）はとても気を使っていましたね。

プールサイドにドリンクやゼリー飲料を常備しておいて、例えば、100m×８本を３セットやった後にそれらを補給してまた泳ぐ。そんな感じです。

どうしてもお腹がすいた時は、おにぎりとか固形物はさすがに摂るのが難しいんですけど、休憩時にスティック状のようかんなど固形物に近い物をよく食べていましたね。私、和菓子に目がないんで（笑）。

編集部　大橋さんのように世界で活躍する選手は、遠征が多いですよね。日本の恵まれた食環境とは違い、現地の食文化も受け入れざるを得ない状況もあります。その点、いかがでしたか？

大橋さん　平井組は、サン・クガ（スペイン）にあるナショナルトレーニングセンターで頻繁に練習をしていましたが、そこがすごい山奥で、食品を調達するのがとても難しいんです。

平井先生は、米だけは用意してくれるのですが、おかずは基本、現地で出される物。肉に塩を振っただけとかシンプルな味づけが多かったので、調味料を持参して味変していました。そんな感じなので、荷物の大半は食品関連でパンパンでしたよ（笑）。

スペインは魚介類を使った料理も名物で、体質の関係で食べられない物がある時は苦労しました。

編集部　他に「これはちょっと…」みたいなものはありましたか？

大橋さん　これもサン・クガのことですけど、ある時、兎肉が出てきたんです。あれには困りましたね。え!? あのウサギちゃんでしょ！ 無理ですよ。結局は食べましたが、ワイルドな味でしたね（笑）。

編集部　本番（五輪）の時の食事も重要です。比較ではないんですけど、出場した２大会の食環境はいかがでしたか？

大橋さん　東京はもう最高でした！ パリではずっとハイパフォーマンス・センター^※）にいましたね。そこで提供される食事はなじみのある物なので、日本とほぼ変わらない感じで過ごせましたね。

※五輪時に設けられる日本選手団のサポート拠点。各専門家が常在し、不測の事態に備える。スポーツ先進国の米・豪が設け始めたのに倣い、日本ではロンドン五輪時から設置。以降、日本選手団の成績向上に大きく貢献している。

編集部　普段の食生活はどのようなものですか？

大橋さん　社会人になってからは自炊することはほとんどなく、困ったらJISSの食堂で食券を買って食べていました。

東京が終わってからは、JISS、AQIT（アキット：五輪仕様公認競技用プール）、湯ノ丸（長野県東御市にある民間高地トレーニング施設）の３拠点を転々としていたので、各地で食事をする生活を送っていました。

サプリや薬などドーピングリスクへの対策

編集部　サプリメントやエルゴジェニックエイド、薬品など、いわゆるドーピング関連の話題に移します。大橋さんは、当然ドーピング検査をたくさん受けたと思いますが…。

大橋さん　50回は下らないと思いますね。練習後２時間以降の血液や尿が対象で、基本的には抜き打ちですが、今は少し緩和されています。

私は抜き打ちが嫌だったので、検査可能時間を朝６時と設定（申告）しておいて、その時間になると検査員が来るみたいな流れでしたね。

編集部　ドーピング違反の原因になるサプリなどは、選手にとって摂取が必要になるケースもありますが、どのような物を選択していましたか？

大橋さん　そうですね、栄養は食事からという基本姿勢は変わりませんが、食品から摂りにくいビタミンDや鉄はサプリや錠剤で補っていました。

キャリアの終盤はクレアチン（関連記事）も摂りながら、競技パフォーマンスの向上に役立ててきました。あとは、花粉の季節になると、花粉症の薬も服用していました。

普段の生活で摂る食事は別として、やっぱりサプリなどはドーピングが心配なので、安全性に問題はないのかを逐一JISSの専門家に判断を仰いでいました。

編集部　世界レベルの選手だと検査の対象になるので、自分で摂取する物について当然気を使うところではあるのですが、大橋さんから見て周辺の選手たちの意識レベルはどのようなものでしょうか？

大橋さん　代表になると、居場所情報を申告する必要があるので、ドーピングに対する意識は高いですが、競技レベルによって濃淡はあると思いますね。

以前、大学の水泳でもドーピング違反が出た事例があって、確かその時は海外製のプロテイン^※）が原因だったと思います。詳細を聞くと、「〇〇選手が飲んでいるから」というのが理由でした。

※）ドーピング物質が検出されるケースは主に、①製造工程での異物混入、②製品化する際にドーピング物質を含む原料の使用がある。海外製は日本製よりも、強力な効果を持つ原料（ドーピングと紙一重の成分）、もしくはそれら原料を組み合わせることもいとわないケースがあり、ドーピングリスクは高い傾向といえる。

もしかしたら、同じような考えで摂取している選手は多いのかもしれません。ただ、自分に必要な物を選択するではなく模倣なので、本当に役立つかは疑問ですし、選手がこういった感覚を持つことは危ないと思います。

競泳では、代表レベルでなくても、例えば大学のインカレでもドーピング検査があります。選手の中には「自分は検査対象にはならないだろう」という心理が働いて、気軽に海外製のサプリなどを選択してしまう背景があるのかもしれませんね。

編集部　ドーピングに対する意識は2019年あたりからかなり薄れてきていると感じますので、啓発・教育面は今こそ必要だと思います。

競泳界と栄養、意識レベルとサポート体制は？

編集部　話題を食に戻して、競泳界の食事情について探りたいと思います。スポーツ先進国では、栄養の専門家がチームや選手に帯同し、食生活の指導などサポート体制が整っています。日本の水泳界はどうなのでしょうか？

大橋さん　水泳界で栄養の専門家が選手につくこと自体少ないですね。チームについてくれることもほぼないですし、個人で雇うまで意識している人は少ないと思います。

私は普段、JISSで練習をしていたので、関連する企業の管理栄養士さんや調理師さんにスポットでお世話になることはありました。

私が所属するイトマン東進は専属の管理栄養士さんがいて、選考会や日本選手権などの大きな大会に帯同してもらって、補食の用意、ホテルの食事内容を見て栄養に関するアドバイスをいただいていました。

ただ、年間を通して常に栄養の相談をする体制ではなかったので、「何でかな？」と不思議に思っていたことは確かです。

編集部　選手の意識はどうでしょうか？ わかってはいるけど…というのが本音なのでしょうか？

大橋さん　代表に長く入っていても、食事に意識を向けていない選手が多い印象です。私はもったいないなと思うんです。せっかく長く競技を続けて、技術や才能もあるのに、目を向ければもっと良くなるのにって。

編集部　長年業界を見てきましたが、変化はなかなか…。体の内（栄養）よりも、体の外（トレーニングや技術）に目が行ってしまうので、疎かになりがちなのかなと、選手への取材で感じることがあります。

チームや組織の視点から見ると、予算的に二者択一（トレーナーか、栄養の専門家か）を迫られ、結果的に前者を重視する傾向が続いています。本来なら、両分野がタッグを組むことが強化の最適解と考えているんですが。

大橋さん　これからいろいろと変わっていくといいですよね。

競技者から栄養の世界へ、将来のビジョン

編集部　４月から東洋大学スポーツ健康科学部で勉強を始めるということですが、経緯を教えてください。

大橋さん　生まれてからアレルギーと向き合ってきたので、アレルギーはどうして発症するのか、みたいなことはずっと興味がありました。

実は、東洋大学に進学する時、食関連でいえば食環境科学部があったのですが、練習拠点と離れ過ぎていたので断念しました。その後に、スポーツ健康科学部が創設されて。もっと早く勉強したかったんですけど、タイミングが合いませんでした。

編集部　もともと興味も勉強する意欲もあったんですね。大学ではどのようなことを専攻するんですか？

大橋さん　大学院でスポーツ栄養学を。基礎的な研究から始まると思います。栄養は自分なりに勉強していますけど、本格的に触れるのは初めてなので、まずは飛び込んでみます。

それから、現役の時に陥った症状を振り返りながら、予防はできなかったのか、どうしたら対策できるのかを検証し、知識として蓄えておきたいです。

編集部　海外を含めた栄養の専門資格の取得も考えていますか？

大橋さん　興味はあります。でも、栄養の世界に触れ、知ってからですかね。セカンドキャリアとして、栄養はもちろん、自分がこの先やってみたいこともあるので、それとの兼ね合いといったところでしょうか。

編集部　最後に、得られた栄養の知識をどのように生かしていくのかを教えてください。

大橋さん　水泳界は、栄養に対する意識があまり高くないと思います。これからずっと携わっていくであろう東洋大学水泳部はもちろん、競技レベルや年齢関係なく、これから大学で勉強をして得られたものを生かしながら、どのように食と向き合うべきかを少しずつ広めていければいいなと思っています。【前編を読む】

Kiyohiro Shimano（編集部、ISSN-SNS：スポーツニュートリションスペシャリスト）