2020年1月、女子プロボクシング・バンタム級王者に就いた奥田朋子(ミツキボクシングジム)。学生時代は柔道の強豪選手として活躍し、教職の道へ進んだが、30歳を区切りにプレーヤーとして新たな挑戦を始めた。ボクシング歴6年で頂点へと上り詰めた奥田の人生を追った。

1位になれへんのか、私…

ボクシング女王の原点は、中学のころに出会った柔道だった。幼少から習字やピアノなどの習い事、友達の影響で始めた水泳といろいろななことに興味があった。中学では水泳部に入るが、遊ぶことの楽しさを覚えていつしか部活に行かなくなってしまった。

「体が大きかったし、声も大きかったんで(笑)、目立つ存在だったと思います。何かあると『奥田さんたちが~』って。エネルギーがあり余っていたんでしょうね。活発過ぎる少女でした(笑)」

奥田のただならぬ”存在感”に目をつけた柔道部の顧問から「お前なら全国で優勝できる力がある!」といわれ、意気に感じて柔道部へ。それからは柔道に没頭した。日中の部活動に加えて夜にも柔道教室に通うほど夢中になり、メキメキと実力をつけた奥田は、柔道を始めて2年足らずで全国大会に出場するほどになっていた。

「柔道とは相性が良かったんだと思います。私も負けず嫌いですし。全国大会もたまたま出られたという感じ。それまでは全く勝てなかったのに、最後の大会だけ勝って。柔道は基本、個人競技ではあるんですが、チームメイトと苦楽を共にした経験ができました。今、ボクシングをやっていますけど、ジムにいる人と一緒に頑張っている一体感みたいなのは同じかなと感じています」

全国レベルの柔道選手になっていた奥田は、岐阜県下の柔道強豪校・鶯谷高校に進学した。中高のレベルの違いに戸惑いながらも、稽古に力を注ぐ日々が続いた。当時の高校女子柔道は団体戦が中心で、個人戦は春の武道館しか実施していなかった。県内でも屈指の実力を持っていた奥田は当然、個人戦での最有力選手と目されていた。

しかし、団体戦のメンバーとして全国大会に出場できるものの、個人戦では中学時代とうって変わってなかなか実力が発揮できず、高校1、2年の2回のチャンスも共に県決勝で敗退してしまった。「実力はあるはずなのに実戦で力を発揮できない」―奥田は高校時代を「暗黒時代」と言い、「私はずっと1位になれへんのかもしれない」と思うようになっていた。

心を強化して成績が向上

母親が教師だったこともあり、奥田もいつしか教師になることを目標にしていた。高校卒業後は柔道推薦で立命館大学文学部に進み、教育心理学を専攻。奥田自身、大事な試合で勝てなかった原因としてメンタルの部分が大きかったと考えていたこともあり、授業の内容を練習や日常生活で実践しようと考えていた。

「心と体がバラバラというのか。勝ちたいと思えば思うほど、体が緊張して力が出せないことに気づいたんです。それならリラックスすればいいと思うんですが、自分の型にバチッとハマるものがなかなか見つかりませんでした」

メンタル訓練の手法を探している中、大学3年の時に授業で習った「自律訓練法」が自身を前進させるきっかけになった。自律訓練法は簡単に言えば「自己催眠をかけてリラックス状態を保つ」もので、うつ病にも効果があるとされる。知識や準備も必要な上、適切な手順で進める必要があったが、授業の課題でもあったため試しに実践してみることにした。

「競技によって違うと思うんですが、柔道は副交感神経(リラックス状態)優位にした方がパフォーマンスを発揮できるという研究データがあって、過度に緊張していた以前の私の状態では力を発揮することは難しかった。その点から、自立訓練法は自分の欠点を克服する最適な方法でした。余計な力が入らない分、疲労のたまり具合も軽減され、練習の質も上がりました。試合でも緊張せずに力を発揮できるようになったかなと感じましたね」

心の強化に成功し、大きな大会でも好成績を上げられるようになり、自らを向上させてくれた心理学の理解に一層力を入れるようになった。卒業論文では自らを”被験者”として競技と心理学の研究を行い、目標だった教職員免許も取得した。

若いからこそいろいろな経験を積んでみる

柔道に没頭したそれまでを振り返って、こんな思いが芽生えていた・「柔道から少し離れてみよう」。柔道にかけた学生時代に別れを告げ、大学卒業後はアパレルメーカーの営業職に就く。柔道以外の道で頑張ろうと張り切っていたが、いつしか柔道をやっていたころと比較するようになっていった。

「『私、全然頑張っていない』。そんな気持ちやったんです。エネルギーはあるのに、頑張れない。どうも空回りしていたみたいで。食事も満足にできず、摂食障害気味になって、体重もどんどん落ちていきました」

沈んだ心と体を取り戻してくれたのは、やはり柔道だった。もともと指導者、教育者を目指していた奥田は原点に戻ることにした。アパレルメーカーを退社して立命館大学大学院に入り直し、大学時代に学んだ心理学をもう一度勉強した。恩師の協力で、コーチとして稽古にも参加させてもらえることになった。

「大学生の時は卒業するために勉強したようなところがあって、本当に中身があったのかなと。きちんと身につけようと、大学院でもう改めて研究しようと思いました。学校が閉まるギリギリまで残って勉強しましたね」

大学院で過ごした3年間を実のあるものとして、その後1年間海外生活を経て、教職に就くことになった。

いつかプレーヤーとして

挫折、復活を経て、28歳で母親と同じ教鞭を振るう立場になった。学生時代と同様に体を動かし続け、自らの経験を生徒たちに教えることに生きがいを感じていた。

教師生活にも慣れてきたころ、柔道時代には経験しなかった大ケガに見舞われる。右膝前十字靭帯の断裂。年末の忙しい時期に入院生活を送ることになった。体が動かせない、退屈な入院生活の中、たまたま見ていたボクシングの世界タイトルマッチ。当時、最強を誇っていた井岡一翔の試合に夢中になり、思わず「私もこれやってみたい」。青春時代、柔道に心血を注いだ頃を思い出した。

「体を動かしたくてウズウズしていて、エキサイティングな試合に一発で心を打たれてしまいました。指導者として生徒に教える立場でしたが、いつかプレーヤーとしてやってみないなというのはずっとあったんです。30歳の区切りを迎えて柔道をやっていたころの情熱が戻ってきた気がします」

退院後、リハビリ生活を経て1年。ジムに入ってトレーニングを始めたものの、そこは女子ボクサーを育成する環境とは程遠かった。「本気で挑戦するんやから、全力で取り組める所で」と再びジム探しを始めて、たどり着いたのが現所属先のミツキボクシングジム。「選手たちの目がキラキラ輝いていたから」と、奥田は入門の理由を話す。探し求めていた理想のジムと出会い、トレーニング、体の作り直し、パンチの打ち方とボクシングの基礎を学んでいった。

サウスポーじゃないのに

プロライセンスを取得してリングに立つ準備を進め、ボクシンググローブをはめた約1年後にデビュー戦を迎えた。しかし、結果はTKO負け。柔道を始めたころはすぐに結果を出せたが、ボクシングはそう甘くなかった。

「体力的にも余裕はあったんですけどね。ガードの仕方すらわからなかったし、試合に出るのが早かったんちゃうかなとか、余計なことを考えていました。試合後の落胆ぶりを見たジム仲間に『辞めないでくださいね』と言われて、これは勝つまで絶対やめられへんぞって。負けたままでは悔しくて、恥ずかしくて。プロでやっていく覚悟が決まった瞬間でもありました」

ほろ苦いデビュー戦は、経験、プロとしての自覚が足りていなかったが、もっと重大な敗因があった。それは「サウスポー(左利き)スタイル」。

普段、奥田は何をするにも右手を使う。柔道時代も右手前で構えて組手争いを制し、利き手を使って強烈な技を繰り出すことで試合を有利に運んでいく。

ところが、ボクシングでの右手前の構えは本来サウスポーが行うもの(中には、右利きでもあえてサウスポースタイルを取るボクサーもいる)。皮肉にも長年体に染みついた習慣が、ボクサー・奥田の可能性を狭めてしまっていた。大きな“勘違い”をしながらも、プロライセンスを取得できたことに驚くが…。

「何か体にしっくりきていたんで、これ(サウスポー)でええんかなと(笑)。オーソドックス(左手前)に戻してからは、確かにパンチに力も乗るし、重心もしっかりしてきてやっとボクサーらしくなってきたと感じました。間合いや相手との駆け引きも柔道の感覚だったんで、いったん柔道は忘れて0からやり直すことにしました」

本来のスタイルに戻し、改めてボクサー仕様の体、考えに変化させていった奥田。手足が長い自らの特徴を生かしたスタイルも確立した。

プロ2戦目で初勝利を飾ると、その後4連勝と完全に勢いに乗りステップアップを果たした。2018年には大きな試合(日本バンタム級王者挑戦者決定戦)も経験。結果は判定負けだったが、確かな手応えを感じていた。

そして、2020年冬、ボクシングを始めてから約5年。OPBF東洋太平洋・日本女子バンタム級王座決定戦を制し、2冠を達成した。前回の試合で勝てなかった相手との再戦だったが、見事に壁を乗り越えてみせた。

「1位になれへんかもしれない」と、勝てない自分を嘆いていた奥田はもういない。自らの思いと努力の末に“運命”を覆したのだった。

減量とパフォーマンスのバランス

奥田は年2回のペースで試合をこなしている。ボクシングは階級制を敷いているため、「減量」は多くのボクサーにとって避けられないものだ。普段の体重から5、6kg落とす必要がある奥田は、減量を「作業」とみているためそれほど苦とは思っていない。

試合が近づいて激しいトレーニングで追い込んでいく中、今でも最適な減量方法を模索する日々が続いている。当初は糖質をカットすることで減量を達成していたが、レベルが上がるとラウンド数の増加とともに試合時間が長くなるため、糖質をカットするとスタミナ(エネルギー)面での不安も出てくる。

※女子は1ラウンド2分。C級(プロライセンス取得時)は4ラウンド制、B級は6ラウンド制、A級・タイトルマッチは8ラウンド制

そこで、奥田は糖質カットではなく摂取量を抑え、脂質をエネルギー源として有効活用できる体に作り変えることにした(いわゆるケトジェニック)。体重を落とせても、動けなくなっては意味がないので、減量とパフォーマンス維持のバランスをうまく取っていくことを心がけた。

「今回の試合(王座決定戦)は追い込む必要があったので、トレーニングも相当量積みました。普段通り食べても体重がみるみる落ちてバッチリだと思っていたんですが、スタミナ切れを起こす、パフォーマンスが上がらないという問題が出てきて、結局途中から糖質もある程度補充する方向に切り替えました。ケトジェニックとの併用とでも言いますか。栄養摂取の対策を考えるうえで、改めて糖質の使い方、必要性を感じましたね」

栄養戦略のほかにも、体のケアに対する意識も高まった。学校の授業が終わって長時間かけてジムに通い、練習が終わればすぐに帰宅。教員とプロボクサー。忙しい毎日を送る中で、体のケアまで心を配るには時間が足りなかった。しかし、大事なタイトル戦を前に周囲から促されてケアにも重点を置くようになった。

「練習が終わるとクタクタで、すぐに寝たい、早く食べたいという気持ちが勝ってしまうんですね。ケアを怠っていたわけではないんですが、時間にも限りがありますから。それで、たまたまジム近くのマッサージ店に行ったら、施術師さんの技術と知識が豊富で、ケアを任せることにしました。疲労回復には効果てき面で、練習の質も上がったと思います」

技術の向上もさることながら、体の内と外からのコンディショニングとケア、そして大学時代に学んだ心理学。周囲のサポートも受けながら、心技体を高めて王座を射止めたのだった。

恐れずにチャレンジしてほしい!

ボクシング女王になり、追われる立場となった奥田は、「正直にいうと、女子ボクシング界の発展のためとか、ピンとこないんですよね。私の場合、好きなことをさせてもらっているという感覚なので。もちろん、いろいろな人が活躍することで人気や注目度につながっていくと思っています。次は世界に挑戦したいですね」と、今後の目標を話す。

30歳でボクシングを始め、頂点に上り詰めた奥田。30歳代だからこそ新しく何かを始めることを恐れないでほしいと、同年代へメッセージを送る。

「『女性の30歳は~』みたいなイメージがありますよね。何かを始めるには遅いと。私は全然そんなことないと思っています。30歳代だってまだまだやれる。肉体的には20歳代の時には及ばないかもしれませんが、その分経験という武器がある。これって強みになると思うんですよね。ボクシングに限らず。それに、ジムで一緒にやっている仲間や若い選手と接することで、新しい発見や学びが常にある。ボクシングは、いろいろな経験を経て成長した自分を表現している場なんです。表現者としてリングに立ち続け、同年代の人たちに少しでも『こんなにやれるぞ』と伝えられたらと思っています」

ボクシング女王であるとともに、教職に就く奥田は若い世代に「どんどん失敗したらええ、あんたらには失敗する権利がある」と、言葉に力を入れる。失敗したからこそ得られる経験は貴重で、それが壁にぶつかった時に乗り越える原動力になるというのだ。

「今は、デジタルとかネットとかが進んで、サポートが充実した生きやすい世の中ですよね。何でも手に入りやすいゆえに、若い子たちはそれに慣れてしまって、壁にぶつかって失敗することに抵抗があるのかなと感じています。失敗は成功のヒントが詰まっている。失敗を恐れて望まない無難な道を選ぶより、失敗を糧に自らを成長させて望んだ道へ進んでほしい」

数々の失敗を乗り越えて、新しい道に進むことでそれまでの経験を生かして大きな成功を果たす。奥田のこれまでの人生がそれを物語っている。

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