「五輪出場3回」。この言葉がどれほどの意味を持つか、スポーツに関心のある人は理解できるのではないか。

3回の出場を果たすには、少なくとも10年以上国内外でトップレベルに位置しながら技術向上に努め、コンディショニングを維持し、自らを律し続けなければ到底成し遂げられない。

2008年北京、2012年ロンドン、2020年東京五輪でビーチバレー日本代表として世界と戦ってきた白鳥勝浩(株式会社カブト)は、加齢に伴うパフォーマンスの低下、ペア問題など多くの課題に直面しながらもそのたび乗り越えてきた。

彼がなぜ長年現役を続けられ、トップを維持できたのか。そして、その経験を今後どのように生かそうとしているのか。トップスポーツ選手のあるべき姿をうかがい知ることができる。

前編は、白鳥が3度の五輪出場を果たした道のりを追う。【写真提供:JVA】

将来有望のバレー選手がビーチへ

プロ野球選手になって1億円プレーヤーになる――白鳥の少年時代、毎日のように目にできるプロスポーツは野球しかなく、多くの少年が思い描く夢を白鳥も見ていた。

夢に向かって小学4年生の時から野球を始め、中学1年生まで軟式野球を続けたが、肘を痛めたことで最初の夢は早くも幕を閉じた。しかし、先輩から誘われて何となく始めたバレーボールが白鳥の今を作り上げていく。

「中学でバレー部に入った時は『うまくなりたい』という気持ちはそこまでなく、ただ部活に行っている感じ。でも、どんどんバレーが楽しくなってハマっていきました。身長が高かったから、さわやか杯1)の東京都選抜にも選ばれて、そこから将来の道が決まっていた気がします」

1)現・JOCジュニアオリンピックカップ。将来の五輪選手発掘を目的に毎年12月下旬に開催される。各都道府県で中学生選抜を編成し、日本一のチームを決める

さわやか杯で活躍し、中学生強化選手にも選出された白鳥は、将来性を買われて多くの高校から誘いを受けた。結局、ダークホースの立場からたびたび上位進出を果たすことで「ミラクル東亜」と高校バレーファンに親しまれている、名門・東亜学園(東京都、現在までに全国制覇8回)に入学する。

入学当初は周囲のレベルの高さに驚愕し、「とんでもないところに来てしまった」と不安を感じていたが、1学年上のチームで早くもレギュラー入り(春高バレー3位)。学年が一つ上がるとチームの中心として、春高バレー準優勝、インターハイ3位と好成績を残した。

全国でも有数の選手として名を馳せるようになった白鳥は、さらなるレベルアップを目指し、リーグ戦・インターカレッジなど優勝多数の東海大学へ進学する。いわゆる、エリート選手に見られる「名門から名門へ」である。

「大学生(先輩)はすごく大人に見えましたね。とにかく高校の時とはケタが違う。それでも、球拾いとか応援とか、1年生の‟仕事”をしながら試合に出させてもらえました。ただ、高校の時から慣れ親しんできたコンビバレー2)から、大学ではオープンバレー3)になったこともあって、センターポジションの自分がボールに触れる機会が少なくなってしまいました」

2)速いトス回しから速攻や時間差などを駆使し、各ポジションが連携しつつ多彩な攻撃を展開する。総合力を生かした戦術
3)高く上がったオープントスを中心に展開され、攻撃力の高いエースアタッカーに得点をゆだねる。個の力を生かした戦術

バレーに対して少し違和感を覚えたちょうどそのころ、ビーチバレーに出会った。

「大学2年生の時、ビーチの大会に出たのがきっかけ。その時はルールもわからず、ケチョンケチョンに負けたんですけど、必ずボールに触れられるし、『何か楽しいな』って思いました。でも、チームに戻るとボールに触れられないギャップが出てくる。少しずつビーチの楽しさを知っていきましたね」

チームではレギュラーで活躍し、夏場には時間のある時にビーチへ行く日々を続けていると、やがて社会へ出る時が近づいてくる。大学バレーのトップ選手はおおむね、企業に所属4)して競技生活を続けるが、白鳥には例外ともいえる境遇が待ち構えていた。

4)当時、実質プロのVリーグ(V.LEAGUEの前身)が存在したが、現在よりも企業色が強かった

「企業に所属してバレーをやりたいと希望していました。まぁ、なかなかうまくいきませんね。就職の準備もしておらず、大学卒業後はアルバイトを続けながら本格的にビーチへ転向して機会を待つことにしました。

ビーチ転向から3年目に湘南ベルマーレがビーチバレーボールクラブを作ってくれて合流することになりました。ベルマーレには2014年まで所属していましたが、社長をはじめ、スタッフ、サポーターとみなさんとてもいい人たちばかりで、本当に自分が苦しい時に助けてもらいました。すごく感謝しています」

競技をする環境がようやく整い、白鳥の生活も少しだけ上向いていった。ビーチは試合に勝つと賞金がもらえる競技でもあり、プレーを続けるモチベーションとして「お金」もあったと白鳥はいう。

「アルバイトの時代があったから、お金の部分はきちんと計算するようにしていましたね。競技をするにも何をするにも、やっぱりお金がかかる。

ビーチはまだまだ環境が整っているとはいえない競技なので、スポンサーをお願いするにしても理解が得られにくい。遠征費は基本自腹だったし、大会で勝って賞金をもらえなければ赤字になる。だから、死に物狂いで試合に臨むし、勝つために何をすればいいかを必死に考える。

資金を集める手段は自分(たち)が勝つしかなかった。生きていくために勝つしかなかった」

大事な試合で勝つための集中力、勝利へのあくなき執念、ハングリー精神はこうして培われた。お金との向き合い方もビジネスライクに捉えるようになっていた。

自身の努力と大きな苦労が報われて結果も出ると、サポートをする人たちも増えてきて状況は好転していく。日々パフォーマンスの向上を図りながら、スポーツ選手の本能をむき出し、研ぎ澄ませながら、いよいよ五輪への挑戦を始める。

五輪出場も、大いに感じた世界との差

白鳥が出場した五輪は、北京、ロンドン(ともに朝日健太郎とのペア)、東京(石島雄介とのペア)の3大会。長年トップに居続けなければ成し遂げられない。

「五輪にはずっと出たいと思っていましたからね。出場するのが遠い夢ではなく手に届く目標に変わった。とにかくガムシャラにやってきた。それに尽きます」

ビーチ男子日本代表が初めて五輪に登場したのは1996年アトランタ大会。瀬戸山正二・高尾和行組(17位)が新たな道を切り開いたもののその後は苦戦が続き、朝日・白鳥組が久々に五輪出場権を得た。

「朝日さんとペアを組んだのが2006年。翌年から、出場する試合には世界ランキングのポイントが絡んでくることもあって、実はそれほど時間があったわけではないんです。戦いながらコンビネーションを高めていくしかない。北京五輪出場の条件が世界ランク24位以内の中、23位で何とかギリギリ滑り込みました」

北京五輪では世界ランクを大きく上回る9位と躍進。世界と対等にわたり合い、大きな達成感を得た。同時に現実も見ることになる。

「五輪でメダルを獲るようなトップ選手は何から何まで次元が違って、実力差をまざまざと見せつけられた。五輪に出れば応援してくださる方々は『おめでとう』って喜んでくれる。その声に、もっといい結果を残して応えたいと思いました。正直、五輪に出場するだけではあまり変わらない。やっぱり勝たないと」

ロンドン五輪では上位進出を目標に掲げ、引き続き朝日とペアを組んで挑むことになった。このころには、スポンサー、ペアを支えるスタッフ(トレーナー、栄養の専門家、メディカルなど)も充実。ロンドンへの道は大きく開かれているかに思われた。

「いやいや、順調とは程遠く。自分たちの間では『奇跡の出場』と話しています(笑)。世界ランク上位での出場を逃して、大陸予選に回ることになりました。

予選はアジア各国の対抗トーナメント戦(3戦先勝方式)で、1位になると出場枠が与えられるんですが、日本(朝日・白鳥組、青木晋平・日高裕次郎組)はシードにもなっていなかったし、下馬評も低かった。

自分たちは調子が出なくて、負けが込んで雰囲気も最悪。でも、その分、後輩たちがものすごく頑張ってカバーしてくれて。チーム日本で一致団結して獲った出場枠だから、ものすごくうれしかったのを覚えています」

やっとの思いで出場権をもぎとったロンドン五輪では、毎試合接戦になるものの19位に終わる。「やり切った」。30歳半ばを過ぎた白鳥の胸に去来するものはそれだった。

ロンドン五輪後、白鳥はビーチ強化委員長兼女子日本代表監督の要職に就く。任を辞するまでの約2年間、競技から離れて指導者の経験を積み、リオデジャネイロ五輪が1年後に迫った2015年、競技生活に戻る。

「競技から離れていたとはいえ、経験があったのと、ロンドン五輪アジア予選の時のように可能性が0ではないと思っていました。でも、今考えると無謀な挑戦。甘かった」

予選までの間、急ピッチでコンディションを高めていったが、本調子には至らず。ブランクもあって、リオへの切符を逃した。白鳥いわく「予選での大惨敗」は気持ちの面で大きく尾を引いた。

「周囲とのレベル差を考えると、自分の年齢で五輪を目指すのはもう難しいのではないか」。地元で開催される東京五輪への挑戦を前向きに捉えられなかった。

パートナー探しは毎回ひと苦労

ビーチはペアあっての競技で、当然一人では試合に出ることができない。最も世界を知っているといっていい白鳥だが、パートナー探しに毎回苦労してきた事実はあまり知られていない。3度目の五輪出場を目指す上での障壁は年齢、競技レベル以外にも存在していた。

「ペアが決まらないとどうにもならない。自分が組みたいと思って声をかけても断られたり、すでにペアがいたり。若い選手は比較的同世代と組むから、ベテランの自分と組んでくれる選手を探すのは至難の業。

そんな状態だったから、リオの予選が終わってからずっと『東京を目指せるかな』『あきらめようかな』の繰り返しでした」

心が揺れ動きながらもコンディショニングに努め、ようやく東京を目指すパートナーが決まった。2019年のことだ。相手は、バレーボール元日本代表でビーチの日本ランキング上位に名を連ねる石島だった。

「パートナーが二転三転して、ペアがいなかった時は外国人と組んで試合に出たこともあって。そんな時に、石島が声をかけてくれて、ペアを組むことになりました。チームを作るのに、ものすごく苦労しましたね」

ビーチのトップ選手同士によるペア結成で五輪に向けて臨戦態勢が整った白鳥に、突如として災難が降りかかる。新型コロナウイルスの世界的な蔓延で五輪の開催自体危ぶまれることになった。

「こんな時に競技をしていていいのか。まずそれはありました。1年延期にはなったものの、パフォーマンスを維持できるか。自分の1年は、他の選手の1年とは別の意味があるから。それでも気持ちを切らずに、前へ進むことしか考えませんでした」

1年延期でコンディショニングに苦労したが、五輪出場をかけた国内予選では他ペアを圧倒。白鳥は自身3度目の大舞台へと歩を進めた。

1度はあきらめかけた五輪では19位と決して満足のいく結果ではなかったが、出場がかなったことで目標は達成できた。ビーチ界で五輪に3回出場した選手は後にも先にも白鳥以外いない。

東京五輪が終わって約1年。20年以上の競技生活で得た経験を今後に生かそうと白鳥は考えている。選手を続けながら、庄司憲右・池田隼平ペアのコーチに就任。

指導者として2024年パリ五輪出場に向けて走り出している。所属先ではスポーツ事業部部長に就き、「ビジネススポーツ」の観点から事業の収益化を目指す。

「バレーボール自体大好きだし、体が動く限り続けられるのがビーチ。楽しむレジャー、健康長寿を目指すための運動としても最適と考えています。文化として根づかせるのと同時に、ビジネスとしてもビーチがツールとして活用できるように、頭を働かせているところです」

後編では、長年トップに君臨する白鳥のコンディショニングに対する姿勢、生涯スポーツとして捉えた「ビーチ」の在り方、ビジネススポーツへの転換など、白鳥の内面を探っていく。

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