永続企画「ニュートリションな人々」12回目は、宇宙航空研究開発機構(JAXA)所属の管理栄養士・港屋ますみさんの取り組みを紹介。プロや育成年代のスポーツ現場での栄養コーチングをしながら、分野の異なる宇宙での栄養研究の最前線にいる。
地上と宇宙では全く環境が異なり、食品や栄養に関する研究も始まったばかり。将来を見据えながら、栄養の専門家として可能性を探っている。
自身の体と向き合い、栄養の道へ
港屋さんが栄養の世界を志すきっかけは、小学5年生のころのできごとにある。すこぶる発育の良い児童だった港屋さんは、自身の体質を改善するために、食事や生活習慣を向き合うことを考えた。
「小学生ながら、かなり激しいダイエットをしていましたね。結果として成功するわけですが、この時に食事と体はとても関係性が深いと何となく感じました。
いろいろな知識や情報を得ている中で、カロリーや食品成分表などの言葉を知り、栄養にとても興味が沸いたのを覚えています。特に、自分の食べた物のエネルギー量など細かな数字がわかる食品成分表は見ているだけで楽しく、愛読書にしていましたね(笑)」
高校2年生になって進路を考える時期になり、食べることも作ることも好きで、栄養に関する数字を見ることにも強い興味があったため、「仕事にできたらおもしろそう」と栄養士・管理栄養士をめざすことにした。何より、体質や健康面に不安のある子供たちを栄養の面から支えたいと思った。
栄養士課程のある大妻女子大学で基礎を学び、資格取得に費やした4年間だったが、なかなか自身の希望する職場が見つからなかった。大学4年生の2月、ようやく実家近くにある大学 の食堂で食事を提供する職に就くことができた。
「スポーツが盛んな大学だったこともあって、気持ちいいくらい学生さんたちがモリモリ食べてくれるんですよね。その光景を見るのが好きでしたし、やりがいもありました。だから、学生さんたちのために作った物を提供するだけでなく、食事に関する情報を発信したり、栄養の話をしたりしていました。
防衛省へ臨地実習に行った時、学生さんたちと同じように活動量の多い自衛隊員の健康を栄養でマネジメントする場を経験したこともあって、アクティブな人の栄養の在り方もあるんだと気づきました。 大学での取り組みや気づきから、スポーツ選手への栄養コーチングができないかと考えるようになりました」
仕事を通じて学生たちとの距離が縮まり、栄養コーチングをする機会にも恵まれたが、トップレベルで活躍する学生の多い大学にあって、自身がそれまで得た知識だけでは足りないことも感じていた。現場の経験をある程度積んだこともあり、いったん職場を離れ、栄養学に加えてトレーニング、ストレングス、メディカルなどスポーツに関するあらゆる知識をインプットする時間に費やした。
知識を得てもコーチングする現場がなければ仕事はできない。‟営業“活動も怠らなかった。スポーツ分野での栄養が今ほど理解されておらず、スポーツ大会の会場に足を運び、何人もの指導者に栄養の重要性を説きながら自らを売り込んでいった。足りないものを補いながら、自らを高めていき、地道な活動が奏功したこともあり、スポーツ栄養学の専門家として活動できるようになった。
「モットーにしていることは『食べたい物をストレスなく、おいしく食べる』。これは、スポーツ分野でも、今従事しているJAXAでも変わっていません。
基本的には、食べたい物を聞いて、それにパフォーマンスを上げるための+αをどうつけられるか。食べたい物を食べているようでも、その裏でさりげなく工夫を施す。その姿勢で栄養と向き合っていますし、それがプロの役割と考えています」
プロや育成年代など多くのスポーツ現場で栄養コーチング経験のある港屋さんは、2018年からJAXAに所属し、宇宙飛行士の健康管理、宇宙日本食の栄養に関する業務などを担当。未知の領域ともいえる宇宙と栄養を結びつける重要な役割を果たしている。
未知なる宇宙環境での食・栄養、専門家の役割
スポーツから宇宙へと壮大な方向転換をした港屋さん。食品治験の現場で経験を積んでいる際、たまたまJAXA所属の栄養士と同僚になったことで宇宙にも栄養が必要と知った。後任として仕事を受け継ぎ、現職に至っている。
「宇宙は地上と全く環境が異なり、自分が培った知識が通用しない点が多々あります。宇宙開発は人類の将来を見据えた研究がおこなわれる場なので、栄養が持つ可能性を広げたいですね。今は『宇宙で食べること』自体が将来に向けての食の改善や向上につながっていくと思っています。まだまだこれからの分野です」
宇宙と栄養に関する研究はまさに始まったばかりだが、実はJAXAに合流するタイミングで港屋さんは大病を患い、療養のため、ほとんどの仕事を受けることができなくなってしまった。しかし、栄養の持つ可能性を広げられると信じ、JAXAでの仕事だけは絶対に続けようと思った。幸い、予後は良好で現場復帰。スポーツ現場での仕事も並行している。
港屋さんが専門とするスポーツ分野では、栄養を通して選手がありたい姿や目標達成のためにコーチングし、コンディショニングやパフォーマンスの向上を食の面から支える。では、未知の領域である宇宙で求められる専門家の役割とは何なのか。
「当初は、年1回おこなわれる宇宙飛行士の健康診断結果を見て、フライト・サージャン(航空宇宙医学の知識を持ち、パイロットや宇宙飛行士の健康管理、航空宇宙医学に関連する研究開発を行う専門医)と情報を共有し、栄養指導をする。これが仕事でした。いってみれば、一般のサラリーマンにおこなう特定保健指導と同じですね。スポーツ現場と違い、フォローアップをすることはなく、細かい栄養管理もそれほど求められていません。
なぜかというと、閉鎖された宇宙空間で膨大なミッションをこなさなければならない宇宙飛行士たちは、ものすごいストレスにさらされています。食事が唯一の楽しみなのに、あれこれいわれるとさらに負担をかけることになりますし、ミッションにも影響が出かねません。だから、健康管理は自身でしてもらって、私たちはそっと見守る。
そもそも、とても厳しい訓練を経て宇宙飛行士になっている人たちばかりですから、自らを律することができる。私たちは、彼らが気づかないように栄養をマネジメントする、サポートに徹する。これでいいのです。国際宇宙ステーション(ISS)のミッションは半年ほどで終了するので、極論をいえば、その間の栄養が多少偏ってもリカバリは十分可能と考えています。
地上よりも食が担う精神的な役割はずっと大きいので、宇宙環境での食生活がどうすれば充実するか。この点に心を砕いています」
宇宙飛行士が食べる物の大半は米国航空宇宙局(NASA)から支給されるが、JAXAの宇宙日本食も使用されている。ただ、レトルトやフリーズドライした物が多く、調理方法は「温める」「水・湯を加える」「そのまま食べる」の選択肢しかない。
加えて、ISSなどの宇宙環境では常温保存しかできず、そのままでは劣化も進みやすい。打ち上げ時にさらされる宇宙放射線が栄養素に及ぼす影響も考慮しなければならない。地上で想定される以上の配慮が必要になってくる。
「宇宙での食事で最も懸念されることは食中毒などの食汚染なので、安全性には特に気を使わなければなりません。
食品の塩(ナトリウム)加減にも関連するのですが、保存性を考えると、塩を多めに入れておく方がいい点があります。宇宙環境では体液が頭の方へ寄ってしまい、鼻が詰まった感覚になるので、味を感じやすくするためには濃いめが望ましい。
一方、無重力空間に長時間滞在すると、骨の主成分であるカルシウムが血中へ溶け出し、骨密度が減少しやすくなる恐れがあります。ナトリウムを多く摂取するとカルシウムの排出を促してしまうので、健康面を考えれば薄めにしておいた方がいい。
実は、NASAの宇宙食とJAXAの宇宙日本食では若干違う点があって、NASAは薄味な代わりに調味料で味を変えられるようになっていて、JAXAの宇宙日本食は塩味が強めに仕上がっているとされていますが、その分おいしいと評価されています。
塩加減一つとっても健康面はもちろん、栄養、おいしさ、安全性、保存性のバランスをち密に考える必要があって、定められた積載量の中で最善の食を模索しなければいけません」
また、果物、野菜など鮮度の高い物は保存の関係で持ち込むことができず1)、生体活動に必要とされる適度な紫外線も浴びることができない2)。そのため、ビタミン類の不足も懸念材料になる。
摂取できる栄養・食品にかなり制約がかかる中で、いかに地上の食生活に近づけるか、港屋さんを始め、JAXAでは追求し続けている。
1) ISS補給機「こうのとり」に積み込まれることはある。
2) 宇宙空間では強烈な紫外線が放射されており、曝露すると体に甚大な影響を及ぼすため、宇宙施設は紫外線完全カットのつくりになっている。
「宇宙栄養」のこれからを見据えて
港屋さんは今、地上から宇宙環境へと変わることで生じる食品の劣化、栄養素の変化、宇宙飛行士の健康栄養などに関して、データを蓄積している。将来的には得られたデータを活用し、宇宙飛行士専用の食事摂取基準を設けることをめざす。
実は、JAXA所属の宇宙飛行士がISSでのミッションを終えた際、体重管理がうまくいかない事象があった。栄養管理はNASAの推奨基準によっておこなわれているが、人種による違いもあって、必ずしも日本人に合うとは限らない。その点を考慮し、今後は日本人宇宙飛行士の栄養管理をJAXA基準でおこなえるようにしたいと考えている 。
「宇宙環境では食品に何が起こるのかがまだはっきりしていない部分もありますし、体にどのような変化があるのかを注意深く観察しています。宇宙飛行士が何をどのくらい食べれば健康的に過ごせるか。食の専門家や大学の研究者でワーキンググループを結成して、定期的に議論しています。未知の世界のことなので、先生方の知恵やお力を借りながら最適化していきたいですね」
港屋さんがJAXAとかかわってから、宇宙日本食の栄養表示は簡略化されるようになった。パッケージには、「ナトリウムが少ない食品」「高カルシウム●%」「1日摂取量の何%が摂取できる」などわかりやすく詳細に明記し、宇宙飛行士たちが一目で食品の特徴がわかるように工夫した。文字の大きさや内容は、実際に宇宙飛行士たちの意見を取り入れている。
宇宙飛行士との取り組み、宇宙日本食の改良、今後進められる日本人宇宙飛行士の栄養管理と、港屋さんが最初に与えられた任務と比較すると、栄養分野で求められることは増大している。民間人が宇宙へ行く時代にもなり、宇宙と栄養もどんどん近づいていく。数十年後に訪れる未来に対して宇宙開発・研究がおこなわれる中で、食品・栄養も進化していく必要がある。
「これから月や火星にも進出するようになると、宇宙での滞在時間や飛行距離は当然長くなってきます。積載量や保存スペース、食品の劣化、栄養素の変化など、現状の対策で十分なのかというさらなる課題が出てきます。
宇宙日本食に関しては、食品の小型化、高エネルギー食などを検討しながら、ブラッシュアップしていく必要があると思っています。例えば、病院や介護の現場では、のりの佃煮やデザートなどすごくエネルギーが高い物が衛生的に作られ、実際に使用されています。これらが宇宙環境でも使えるようになると宇宙生活は豊かになっていきます。
ですから、宇宙環境を使った栄養研究が進み、地上と同様の品質、健康効果などが証明できれば、食の選択肢がどんどん広がっていくことになります。普通に宇宙旅行へ行く時代になったら、いろいろな食べ物があるとより楽しめますしね。今から検証していかなければなりません」
宇宙栄養に関しては、港屋さんが先駆者として進めているが、新たな分野での栄養の在り方に関心を持つ人が増えてほしいと願っている。
「宇宙と栄養はなかなか結びつきにくいと思いますが、将来を想像しながら仕事をするのはやりがいがありますね。かかわる人が増えていけば、多くの見解が出てきて栄養の価値は高められると思います。ただ、ここで栄養の可能性を示すことができないと続かないとも自覚しています」
港屋さんはスポーツと栄養を天職と定めながらも、実績や経験もないところから始めて、自らを向上させてきた。そして、宇宙という未開拓の新しい分野でも同様に0からノウハウを構築し、後世に続く宇宙栄養の重要性を高めていってくれるだろう。
宇宙での食生活(写真)
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