スポーツ大国・アメリカでは、複数の競技を掛け持ちしながら、最終的に自分に合った(将来稼げる)競技を選択し、プロとして活躍するケースが当たり前になっている。
競技選択の自由が、上質かつ豊富な人材を輩出し続けられるゆえんだが、日本ではまだまだこの考えが浸透していないし、環境も整っていない。
現役時代、ラグビー日本代表に選出され、U20日本代表ヘッドコーチ(HC)を務める大久保直弥氏は、野球、バレーボール、ラグビーと異なる競技でのプレー経験を持つ。
大久保HCの場合は二刀流ではなく、いずれもいったん区切りをつけてから競技を始め、最終的にはラグビーを選択し、トップレベルにまで到達した。これは世界で見ても、かなりまれなケースといえるだろう。
前編では、大久保HCの現役時代を振り返りながら、マルチスポーツで成功できた理由を探る。
後編:U20日本代表を指揮する大久保HCの指導の在り方
<選手歴>
南大師中/野球 → 法政二高/バレーボール → 法政大学/ラグビー → サントリー(1998-2003) → ニュージーランドNPC(2004) → サントリー(2005-2008) 日本代表キャップ:23
<指導歴>
サントリー/コーチ・HC(2010-2015)→NTTコミュニケーションズ/コーチ(2015-2018)→サンウルブズ/コーチ・HC(2018-2020)→ヤマハ発動機/HC(2021)→静岡ブルーレヴズ/コーチ(2021-2022)→U20日本代表/HC(2023-)
父親の影響で野球を始める、チームメイトに後のプロ選手
大久保家は文字通り「スポーツ一家」で、父親は学生時代に野球、母親もバレーボール選手として活躍した。大久保HCは後にラグビー日本代表選出、指導者になってからも東京サントリーサンゴリアスの日本選手権3連覇に貢献するなど輝かしい実績を残す。
実弟の茂和氏はバレーボール選手で、筑波大学、堺ブレイザーズ(V1男子)とキャリアを築いた後、指導者へ転身。銅メダルを獲得した2012年ロンドン五輪バレーボール女子日本代表コーチなどを歴任し、現在は埼玉上尾メディックス(V1女子)で指揮を執る。
両親の影響で、幼少期からスポーツが身近な環境で育った大久保HCは初め、野球に熱中する。少年野球で同じチームにいたある選手のプレーを見て、レベルの差を目の当たりにしたという。
「侍JAPANの井端弘和監督(中日・巨人)と家が近所で、同じチームに所属していました。彼は、嫉妬するレベルではないほど実力が違っていて、キャッチボールをしていてもボールの回転は違うし、打球の速さもケタ違い。プロへ進む選手というのは子供の時からそうなんだと悟りましたよ」
川崎市立南大師中学校を卒業後、市内の進学校・法政大学第二高等学校に入学した大久保HCは、ここでも野球を続ける意思があった。野球部は過去、柴田勲(巨人)を擁して甲子園夏春連覇を果たすなど神奈川県内では知られた古豪。当時100人以上の部員が在籍していた。
「野球を3年間頑張って甲子園に出場するために『部員100人の中でどうすれば試合に出られるか』『強豪ぞろいの県を勝ち抜く力はあるのか』などを冷静に分析しました。でも、甲子園への道のりはかなりハード。ならば、スポーツ選手として新しいプラン(競技転向)を考えてもいいのかなと思いました」
未経験で高校からバレー、全国レベルでも活躍
野球を続けるか、他の競技で活躍できる道を見出すかを模索していた時、188cmと恵まれた体格を持つ大久保HCに視線を送る人物がいた。バレーボール部監督・馬場信親氏だ。
馬場監督は大竹秀之ら多くの日本代表選手を高校時代に育て上げた名将で、チームも春の高校バレー(春高)、インターハイ(IH)、国民体育大会(国体)で良績を残す全国レベルの強豪だった。
「デカいヤツがいるってね。いいメンバーがそろっているんだけど、センター(C)が一人しかいないからどうだと、馬場先生に声をかけられたんです。口がお上手で、体育教官室に一人呼ばれて説得されては、ノーとは言えませんでしたよ(笑)。
でも、バレーはテレビでもよく観ていましたし、知識も0ではなかったのでやってみることにしました。母は喜んでいましたね(笑)」
試合に出て、活躍する――これを前提とした野球からバレーへの戦略的転向は、スポーツ選手としてのキャリアを一歩進めた。高校3年生時にはレギュラーとして全国の舞台へ。春高には一歩届かなかった(神奈川県予選2位)ものの、IH・国体への出場を果たした。「他のメンバーが良かっただけです」と謙遜するが、それだけでは片づけられない。
では、持って生まれた運動センスでバレーもこなすことができたということになるが、大久保HCは「器用ではないし、運動神経は全くのゼロなんですよ」と否定する。経験0から競技を始めて前進できた理由はどこにあったのか。
「小・中と長くやってきた選手に追いつくには、やはり時間がかかります。だから、頭・戦略。もっといえば、バレーを始めたばかりの自分が試合に出してもらうためのアピール。
ポジションがCで肩が強かったこともあって、ブロックを頑張ることにしました。1試合にブロック2本と毎回ノルマを立て、それがセットで2本決められるようになれば、『お、使えるな』となって、試合に出られる確率も高くなる。だから、読みが違ってもあきらめずブロックに跳び続け、ここぞって時には仕留める。そんな感じでしたね。
ブロックをする時もただ跳ぶのではなく、『さっきは左に打ってきたから今度は右か』とか、相手がボールを打ち込むコース、クセなどを予測してプレーしていました。練習でも試合でも、自分なりに戦略を練って臨んでいたつもりです」
「スポーツでも何でもそうですが、考え続けることは大切」と話す大久保HC。馬場監督の指導方法は、考える習慣を育むのに適していたと振り返る。
「(馬場監督は)以前はかなり厳しく選手を鍛え上げていたと聞きました。でも、自分のころにはめっきり影を潜め、選手主体の指導に変わっていました。ミスをして責められることも、怒鳴られることもなく、重要な局面ではいつも的確なアドバイスをしてくれました。
それを踏まえて自己反省をしながら、どうやったら勝てるようになるかといった戦略は主に自分たちで組み立てていましたね。
監督のトップダウンで〝やらされる〟と、短期的には結果が出ると思いますけど、思考停止になるというか、成長が止まって長続きしません。だから、『自分(たち)で考える』というのは大事なことでした。
指導者は『自分の考えを伝えたい』『選手に影響を与えたい』と思うんですけど、馬場先生は『教え過ぎない』『じっと我慢する』ことで、選手たちに自主性を芽生えさせ、成長を促してくれました」
バレーからラグビーへ、0から体をつくり上げて日本代表に
大久保HCは法政大学進学を機に活躍の舞台を移すことになるが、結果的に大成功を収めた。この新たなキャリアの創出は、高校時代に多くを学んだ馬場監督の存在も大きかった。
「(外部進学で)大学でもバレーを続けるつもりでいましたが、特待セレクション(スポーツ推薦枠の選抜)に落ちてしまいまして…。それで、少し考えるところがありました。
当時、(内部進学できる)法政大学のアメリカンフットボール部は日本一になるくらい強くて、すごく興味がありました。仲のいい友達も多かったし、大学で始める人もいてハンデはそれほどないからやってみたいなと。
それで、馬場先生に『アメフトやります』って報告しに行ったら、『お前はラグビーをやれ』と言われて。ラグビー部の監督にはもう話が通っていて、いろいろと話を聞いた末にラグビーをやると決断しました」
ネットを挟んで相手と対峙する非接触のバレーに対して、ラグビーは体と体がぶつかり合う肉弾戦の様相を呈する。ルールも競技特性も全く違うラグビーをする上で、大久保HCに戸惑いはなかったのか。
「野球やバレーと違って、ラグビーはコンタクトスポーツなので、選手同士が強く接触することで痛みやケガのリスクが出てきます。だけど、そこに対しての恐怖心は全くなかったですね。実際、痛みを感じるより前に、負けたくないって気持ちの方が強かったですから。性格的にも能力的にも、ラグビーは自分に向いていたんでしょうね」
〝天職〟のラグビーと出会い、さらなる高みを目指すことになった大久保HC。当たり負けしない体をつくるため、以前まではほとんど手をつけていなかったトレーニングに勤しむ日々が続いた。
「高校時代は、スクワットやベンチプレスなんてやったことないわけですよ。ラグビー部の先輩たちは平気で100kgとか持ち上げる。でも、自分は40kgしか上げられない。まぁ、もともと初めてなんだし、まじめにコツコツやっていけばいいと考えていました。
トレーニングを積み重ねるうちに、上げられる重量が着実に増えていって、努力してきた成果が目に見える快感みたいなものはありましたね。半年過ぎたくらいには100~120kg上げられるようになっていました」
ラグビー仕様の体をつくるためには、素となる栄養の摂取も考える必要がある。当時は今ほど、栄養学が知られていない時代だ。
「寮生活だったので、ご飯、汁物と食事はきちんと出てきました。肉(たんぱく質)が好きでしたが、学生だからお金もないので、どうやって安く、たくさん食べるかみたいなことは考えていました。今のように、プロテインやサプリメントもすぐ手に入る環境でもなかったですし。
現役時代も、指導者になってからもそうですが、トップレベルの選手を見てみると、みんな胃腸が強い(食べられる)んですよね。当然、競技をする上で重要です。U20の選手たちにもその点を踏まえて向き合ってもらいたいですね」
大久保HCが着々と積み重ねてきた努力は実を結び、1年生の秋には早々と公式戦メンバーに名を連ねる。その裏には高校時代と同様、「どうやったら試合に出られるか」を考えた大久保流の戦略があった。
「技術では試合に出られないことがわかっていましたから、違う視点で考える必要があったんですよね。法政のセレクションポリシーとして、『タックルがしっかりできる(選手)』があったので、必然的に自分が時間をかけるべき点を見定めました。
さらにいうと、キックオフ後に相手陣で最初にタックルするのが一番目立つ(アピールになる)。これは、スピードがなければできないことなので、走力もつける。タックルとスピード。この2つを重点的に鍛え、試合に出るための準備を進めていました。
こうなりたい自分、進みたい目標を考えた時に、逆算してプランを練る。そのために、いかに効率のいい努力をするか、計画性をもって臨むか。これは、常に頭の中にあったことです」
大久保HCの現役時代のポジションはフォワード(FW)。相手とのボール争奪戦でカギを握るロック(LO)、フランカー(FL)を務めることが多かった。大久保HCは、ハードなラグビーの中にも、他競技で得た経験は生かされたと語る。
「特にLOは、ラインアウト時にジャンパーを務めることもありますし、ラグビーでは空中に上がったボールの争奪もあります。
空中のボールを捉えるビジョンというんでしょうか。野球の時のフライ捕球、バレーの時のトスを打つ、ブロックをする感覚から養うことができましたね。他の選手とは違ったモノを持っていたと思います」
大久保HCが在籍した4年間、法政大学は関東大学ラグビーリーグ戦グループ1部で常に上位。自身もリーグワンのチームからオファーを受けるくらいまで実力をつけていた(卒業後、サントリーに入団)。
そして、ラグビーを始めて5年。異例の早さで日本代表に選出される。2003年ラグビーワールドカップにも出場し、強豪・スコットランドを相手に勇戦。「ブレイブ・ブロッサムズ(勇敢な桜たち)」と称されたチームでは副主将を務めた。
「(代表入りは)さすがにプランには入っていなかったですね(笑)。運ですよ、運。自分にできることを全力でやり続けただけです。
ワールドカップのウェールズ戦なんて、7万人の大観衆の前でプレーするわけですよ。熱気や歓声がものすごくて、味方の声も聞こえない。チームがバラバラで、孤独を感じました。当時は、世界で戦った経験が乏しかったので、対応するのが難しかったです。
もし、プレーが止まるたびにみんなで集まって、密にコミュニケーションを取っていれば、もっと自分たちのプレーができたかもしれません。ただ、こういった『やっておけば良かったな』という自分たちの経験は、次の世代にしっかり引き継がれていると思います。今の代表チームは雰囲気に飲まれることなく、当たり前にできていますからね。
現在指揮しているU20日本代表の選手たちは将来、大舞台に立つ可能性を秘めています。自分が経験したこと、やるべきことなど、選手たちとの対話などから伝えていけるといいですね」
代表キャップ23、所属のサントリーでは主将を務めるなど中心選手としてプレーし、2008年に現役引退。その後は主にリーグワンのチームで指導経験を積み、昨夏U20日本代表HCに就任した。大久保HCは「若い世代の指導は初めてですが、ものすごく楽しみにしています」と、新たな挑戦に意気込みを見せている。(取材裏話)
後編は、指導の在り方、将来のブレイブ・ブロッサムズを担うU20代表選手の育成プラン、ビジョンなど、指導者としての大久保HCを掘り下げる。