2020年1月、女子プロボクシング・バンタム級王者に就いた奥田朋子(ミツキボクシングジム)。学生時代は柔道の強豪選手として活躍し、教職の道へ進んだが、30歳を区切りにプレーヤーとして新たな挑戦を始めた。ボクシング歴6年で頂点へと上り詰めた奥田の人生を追った(全3回)。
いつかプレーヤーとして
挫折、復活を経て、28歳で母親と同じ教鞭を振るう立場になった。学生時代と同様に体を動かし続け、自らの経験を生徒たちに教えることに生きがいを感じていた。
教師生活にも慣れてきたころ、柔道時代には経験しなかった大ケガに見舞われる。右膝前十字靭帯の断裂。年末の忙しい時期に入院生活を送ることになった。体が動かせない、退屈な入院生活の中、たまたま見ていたボクシングの世界タイトルマッチ。当時、最強を誇っていた井岡一翔の試合に夢中になり、思わず「私もこれやってみたい」。青春時代、柔道に心血を注いだ頃を思い出した。
「体を動かしたくてウズウズしていて、エキサイティングな試合に一発で心を打たれてしまいました。指導者として生徒に教える立場でしたが、いつかプレーヤーとしてやってみないなというのはずっとあったんです。30歳の区切りを迎えて柔道をやっていたころの情熱が戻ってきた気がします」
退院後、リハビリ生活を経て1年。ジムに入ってトレーニングを始めたものの、そこは女子ボクサーを育成する環境とは程遠かった。「本気で挑戦するんやから、全力で取り組める所で」と再びジム探しを始めて、たどり着いたのが現所属先のミツキボクシングジム。「選手たちの目がキラキラ輝いていたから」と、奥田は入門の理由を話す。探し求めていた理想のジムと出会い、トレーニング、体の作り直し、パンチの打ち方とボクシングの基礎を学んでいった。
サウスポーじゃないのに
プロライセンスを取得してリングに立つ準備を進め、ボクシンググローブをはめた約1年後にデビュー戦を迎えた。しかし、結果はTKO負け。柔道を始めたころはすぐに結果を出せたが、ボクシングはそう甘くなかった。
「体力的にも余裕はあったんですけどね。ガードの仕方すらわからなかったし、試合に出るのが早かったんちゃうかなとか、余計なことを考えていました。試合後の落胆ぶりを見たジム仲間に『辞めないでくださいね』と言われて、これは勝つまで絶対やめられへんぞって。負けたままでは悔しくて、恥ずかしくて。プロでやっていく覚悟が決まった瞬間でもありました」
ほろ苦いデビュー戦は、経験、プロとしての自覚が足りていなかったが、もっと重大な敗因があった。それは「サウスポー(左利き)スタイル」。
普段、奥田は何をするにも右手を使う。柔道時代も右手前で構えて組手争いを制し、利き手を使って強烈な技を繰り出すことで試合を有利に運んでいく。
ところが、ボクシングでの右手前の構えは本来サウスポーが行うもの(中には、右利きでもあえてサウスポースタイルを取るボクサーもいる)。皮肉にも長年体に染みついた習慣が、ボクサー・奥田の可能性を狭めてしまっていた。大きな“勘違い”をしながらも、プロライセンスを取得できたことに驚くが…。
「何か体にしっくりきていたんで、これ(サウスポー)でええんかなと(笑)。オーソドックス(左手前)に戻してからは、確かにパンチに力も乗るし、重心もしっかりしてきてやっとボクサーらしくなってきたと感じました。間合いや相手との駆け引きも柔道の感覚だったんで、いったん柔道は忘れて0からやり直すことにしました」
本来のスタイルに戻し、改めてボクサー仕様の体、考えに変化させていった奥田。手足が長い自らの特徴を生かしたスタイルも確立した。
プロ2戦目で初勝利を飾ると、その後4連勝と完全に勢いに乗りステップアップを果たした。2018年には大きな試合(日本バンタム級王者挑戦者決定戦)も経験。結果は判定負けだったが、確かな手応えを感じていた。
そして、2020年冬、ボクシングを始めてから約5年。OPBF東洋太平洋・日本女子バンタム級王座決定戦を制し、2冠を達成した。前回の試合で勝てなかった相手との再戦だったが、見事に壁を乗り越えてみせた。
「1位になれへんかもしれない」と、勝てない自分を嘆いていた奥田はもういない。自らの思いと努力の末に“運命”を覆したのだった。
奥田朋子選手所属ジム: ミツキボクシングジム