指導者たちが選手育成、チーム強化のためにどのようなことを考え、取り組んでいるのかを追求する連載企画「指導者たちの心得」。

第4回目は、強豪ひしめく埼玉県を制し、2017年夏の全国高等学校野球選手権大会で優勝を果たした花咲徳栄高等学校・岩井隆監督の心得(全2回)。

長年、チームの指揮を執る岩井隆監督は、4人の師から大いなる薫陶を受け、さらに自身の指導哲学をとして深化させてきた。そして、今の時代にあった最善の指導方法を模索し続けている。

前編は、岩井監督が持つ指導哲学の根底にあるものは何か? 花咲徳栄の監督就任までを追う。

【1の師】精神を徹底的に鍛え上げた中学教諭

埼玉県川口市出身の岩井監督の原点は、小学校の時に始めたソフトボールにあった。

町内会のチームに入り、ダイヤモンドの狭いソフトでプレーするうちに、判断スピードや精密なボール扱いを身につけた。

しばらくすると、岩井監督の野球センスの高さを聞きつけた少年野球の監督からスカウトされる形で“移籍”。監督の勧めもあり、中学は学区外の川口市立幸並中学校へ通い、本格的に野球をすることになった。

「僕が少年時代を過ごした1980年代、校内暴力が大きな社会問題になっていて、行く予定の学校がものすごく荒れていたんです。

それで、少年野球の監督が『野球に集中できなくなるから、離れた中学へ行け』と。僕の意思とは関係なく(笑)。あまり聞かない話ですよね。中学生で越境入学って」

この越境入学は、精神面で大きな成長を促すことになり、今に通じるベースができ上がったと、岩井監督は振り返っている。

幸並中学は代々、野球が強く、チームを率いる監督は剣道を嗜んでいたこともり、礼儀、戦う姿勢など、技術よりも精神を重視する教育信念を持っていた。

「正直なところをいえばスパルタ、しごきの嵐でしたね(笑)。『返事をしろ!』『挨拶をしろ!』『気合だ! 根性だ!』って具合に。でも、監督の激しい叱咤に反発するくらいの気概がなければ続けていけませんから、僕も必死でくらいつきました。

それに、先輩たちは「絶対に負けられない」という強いプレッシャーの中で、常に強者のプライドを持って野球をしていました。僕もそれを見ていたので、自然と同じような気持ちで練習に打ち込んでいましたね。

人前に出ても堂々と話せるとか、しっかりと声を出して考えを伝えるとか、中学の監督のおかげで、人間として大切なことが培われました」

厳しい環境の中で心身を鍛え、活躍した岩井監督は高校でも野球を続け、さらに先の未来も想像していたのだが…。

【2の師】野球理論に長けた稲垣人司への心酔

強豪チームの注目選手だった岩井監督の下には、埼玉県内の高校からスカウトの話が数多く来ていた。その中には志望する学校もあり、岩井監督は入学をめざし、勇んで練習会に参加した。

ところが、この高校の監督が岩井監督に対して冷や水を浴びせるような一言を放つ。「高校じゃ、体が小さすぎるな…」。

「これはホント、頭に来ましたね(笑)。練習会に参加せず、家に帰りましたよ。すぐに(笑)。こんなこといわれるのなら、高校野球は別にいいやって気持ちになりましたね。

僕たちの時代は甲子園よりも後楽園(プロ野球)なんです。だから、高校野球もあまり見ていなかったし、体の大小で選手の良し悪しを決めつけられるなんてバカらしいってね。自暴自棄になっていました(笑)」

高校野球に嫌気が差していた時、友達のつき添いでたまたま創価高校(東京都)の練習会に参加することになった。「野球を楽しむか」くらいの軽い気持ちだった。

しかし、岩井監督はそこで、生涯の師・稲垣人司監督と出会う。

一通り練習を終えた時、稲垣監督が「お前、どこの高校へ行くんだ」と声をかけ、接触を図る。ひときわ動きの良かった岩井監督に目をつけたのだ。

「稲垣監督はとても理論的に話をされる方。体が小さくて、入学を敬遠されたことを伝えると、『誰がホームを踏んでも1点になるのが野球。野球の本質に体の大小は関係ない』って。面白いことをいう監督さんだなと思いましたね」

岩井監督は、「(体の小さい)僕は使えますか?」と率直に聞くと、「戦争で大砲ばかり集めるか? 接近戦になったら機関銃や自動小銃も必要だろ」と返ってきた。

「野球でいうと、長打が打てる選手(大砲)、ヒットを量産する選手(機関銃)、機動力でかき回したり、守備でチームに貢献したりする選手(自動小銃)と、チームにいろいろなタイプがそろってこそ、どんな局面でも勝負ができる。このことをわかりやすく説明してくれたんです。

そして、『お前は俺の自動小銃になれ』。この一言は効きましたね。同じ高校野球の監督でも全く違う考え方を持っていて、自分を肯定してくれる。一生この人についていこうと決めました(笑)」

創価高校から神奈川県の桐光学園へ転任した稲垣監督を追いかけ、岩井監督はまたしても越境入学することに。今度は、両親の反対を押し切り、自分の意思で。

当時の神奈川県は、横浜、横浜商、桐蔭学園、東海大相模、藤嶺藤沢など200校超がしのぎを削る全国一の激戦区。しかし、岩井監督は県内の勢力図も、さらには男子校だったことも試験を受ける時まで知らなかった。それほど稲垣監督に心酔していた。

「稲垣監督は、桐光学園を甲子園へ連れて行くために呼ばれましたが、投手・打撃理論が的確で選手の育成に長けているタイプ。中学では精神論一辺倒で過ごした僕に、稲垣監督の理論が加わるわけです」

稲垣監督は理論を重視した指導で、栗山秀樹(侍JAPAN監督)など数多くのプロ野球選手を高校時代に育成している。

毎週土曜日になると、稲垣監督による野球の勉強会があり、岩井監督は投手や打撃など野球理論を徹底的に叩き込まれた。

「一番勉強になったのは、理論と理屈の違い。万人が聞いても納得してくれるのが理論。野球人にしか納得できないことは理屈。野球で投げることも打つこともすべて、理論体系と力学で成り立っていると。すごく生意気で、理屈っぽかった僕を理論でねじ伏せてくるんです(笑)。

何を聞いても答えてくれる。何度同じ質問をしても丁寧に返してくれる。それも夜遅くまで。僕にとって、とてもありがたい存在でした」

毎週熱を帯びた勉強会の中で、岩井監督が「僕を指導者にしたかったんじゃないかな」と振り返るように、稲垣監督の心のはしを感じるようになっていた。

それを表すかのように、主将として甲子園をめざし、チームをまとめる一方で、チームメイトに細かく指示を出したり、理論を語ったり、プレイングマネジャーのような役割も担うようになっていた。

「多感な青春時代に自分の持つ間違った価値観をすべて正してくれました。僕は本当に運が良く、稲垣監督との出会いは人生を決めたといってもいいです。

高校時代の稲垣監督との日々は何物にも代えがたく、とても充実していました。練習はきつかったけど、毎日が楽しかった」

【3の師】人心掌握・チームマネジメントの伊藤義博

稲垣監督の下、徹底的に野球理論を学んだ岩井監督は、大学の雄・東北福祉大学へ進む。

伊藤義博監督が率いた同大からは、佐々木主浩・金本知憲ら殿堂入りを始め、多くのプロ野球選手が輩出されている。

「入った瞬間、『これはダメだ』って思いましたね。何しろ、自分よりも体が大きくて、うまくて速い選手がゴロゴロいるんだから。アメ車と軽自動車くらいの差(笑)。

トップレベルに行ける素材っていうのは本当にあるんだなと気づきましたね。1年も経たないうちに教職を取ろうって決めましたよ(笑)」

岩井監督は選手として練習に励みながら、指導者の道を模索している中、大学日本一を果たした伊藤監督を観察するようになる。しかし、当初は伊藤監督の指導方針に疑問を感じることが多々あった。

「僕は何しろ稲垣色が強すぎて(笑)。伊藤監督は、選手に技術を教えるわけでもないし、ただ選手を遠目に見ているだけ。試合で細かい戦略を敷いているわけでもない。これでいいのかと思いましたね。稲垣監督とのギャップをすごく感じました」

岩井監督によれば、伊藤監督は東北の地で無名に等しかった同大を日本一にするべく、お膝元である仙台市に野球関係者を始め、多くの人を集めて盛り上げようとしていた。そのためには、人脈、人や社会とのかかわり、縁をとても大事にしていたという。

その考えの中で、選手たちには野球後の社会性を踏まえ、技術よりも「学生野球」「身だしなみ」「取り組む姿勢」といった人間教育に重きを置いていた。

「監督になってから気づきました。細かいことはコーチらに任せ、自らはチーム全体を掌握し、円滑に運営することに徹する。伊藤監督の立ち居振る舞いこそが監督業だと。プロデューサーとか、マネジャーですよね。チーム運営の在り方は、間接的ではありますけど、伊藤監督から学びましたね」

大学までに精神力を徹底的に鍛え上げられ、技術指導、チームマネジメントとそれぞれに長けた、全く違うタイプの指導者と出会った岩井監督。指導のイロハを収め、大学卒業後は、師と仰ぐ稲垣監督の下へはせ参じた。

稲垣・花咲では「鬼軍曹」、嫌われ役を買って出る

大学卒業後、稲垣監督率いる花咲徳栄に社会科教諭として赴任、野球部コーチに就任する。同高が開校して10年目にあたる1992年のことだ。

監督と選手の関係ではなく、今度は同じ指導者として、チーム、選手の育成を一緒におこなっていくことになる。

「チーム構成上の問題で、稲垣監督とは何度か衝突することもありました。それでも、数日後に『すみませんでした』と頭を下げると、稲垣監督もそれを受け入れ、いつも通りの毎日に戻る。師匠と弟子の間柄なんて、そんなものです」

稲垣監督の指導理念は、端的にいえば「技術を上げれば、選手は育つ」。そのためには、理論に加え、厳しい練習を選手に課すのも手段の一つとして捉えていた。

「稲垣一門の僕としては、選手は練習すればするほどうまくなる。そう信じているんです。稲垣監督からは、『〇を育てろ』とか『◇は振り足りないから500本!』みたいに指令が飛ぶ。それで、直接選手を鍛え上げるのが僕の役割でした。

厳しい練習を課すコーチの僕が嫌われることで、選手たちが稲垣監督の方を向き、チームがまとまると思っていましたから、率先して役目を果たしていましたね。グラウンドを出れば、選手たちとは仲良くやっていましたけど、練習中はもう鬼軍曹でした」

稲垣・岩井体制の下、当時の選手たちは相当量のハードな練習をこなし、埼玉県内でもベスト8~16クラスのチームにのし上がっていく。とはいえ、甲子園までは近いようで遠い道のりが続いていた。

「コーチとして9年間、稲垣監督とご一緒するんですが、2人でもがいて、もがいて、もがきぬいて。やっても、やってもうまくいかない。やり過ぎて大失敗。そんな日々でしたけど、稲垣監督への絶大な信頼が失われることはありませんでした」

そして、敬愛する稲垣監督からのバトンタッチは、突如として訪れる…。

佐藤栄学園 花咲徳栄高等学校
1982年、埼玉県加須市に男女共学校として設立。普通科と食育実践科が併設されている。

「理論と実践の一体化」「生活指導そく学習指導」「生徒と教師が共に学ぶ」を教育方針の柱とし、社会へ出ても通用する人材の育成を図っている。

男女野球部は全国屈指の名門校として知られ、これまでに30人がプロ野球界へ進んでいる。

【指導者の皆様へ】
編集部では現在、連載企画「指導者の心得」にご登場いただける指導者の方を募集しています。
「自分の信念を活字化して発信してもらいたい」「うちの監督の素晴らしさを多くの人に知ってもらいたい」など、個人・団体競技、指導年代、自薦・他薦は不問です。
お名前、チーム・学校名、依頼内容など、下記よりお気軽にご連絡ください。

スポトリ

編集部