ノルディック複合の世界で頂点を極めた荻原健司氏は現在、長野市の市長として行政を取り仕切る立場にある。後編は、選手時代に感じたスポーツ行政の在り方をどのように市政に反映しているか、農産物の宝庫である長野県の中心都市における農政の課題解決に向けて何をおこなっているかを中心に話を聞いた。

現役引退後、国会議員から長野市長へ

編集部 スポーツ選手が政治家へ転身するのはよくある話ですが、自治体の首長にまでなって大きな政治的責任を果たそうとしている人は他に見当たりません。なぜ政治の世界へ飛び込んだのでしょうか?

荻原健司・長野市長(以下、荻原市長) 2002年に競技を引退し、長野市内の建設会社に所属しながら、後輩の指導、後援会や普及活動などをしていました。

ある時、社長に呼ばれて「来年の参議院議員選挙で、スポーツ界から人材がほしいと相談されたんだけど、どうだ?」みたいな感じで、出馬を促されました。

最初は「えー!?」ですよ。周囲の人たちも大反対で、「政治なんてできるのか」「せっかく金メダルまで獲ったのに…」って。でも、「国がもっとスポーツを応援してくれるような環境を整えてもらえたら」と競技者として強く感じていたので、国会議員になって理想を実現するために、前向きに考えることにしました。

私は現役時代に世界各国を訪れ、そのたびに日本との違いをすごく感じていました。欧米のスポーツの捉え方は「レジャー」で、みんなが楽しむために多くの施設を作り、残していこうという考えがあります。その上に「競技」が成り立っています。

しかし、日本では競技とレジャーを切り離して考えてしまう傾向にあり、スポーツを教育行政の中で語ってしまうことが多いんです。「青少年健全育成の一環に競技があるんだから、レジャーではありません」と。もう少しスポーツを気軽にできるレジャーとか、まちづくりを見据えた考えがあってもいいのかなと常々感じていました。

国会議員になってから、スポーツ行政、文部科学省での活動を中心に、欧米との格差是正を促そうと活動をしていました。それ以外でも経済産業大臣政務官も務めましたが、現場に戻って現状を把握することが最善と考え、1期務めて国政から離れることにしました。

2021年に、第二のふるさとである長野市長選挙がおこなわれるということで、議員時代の経験を生かしてより大きな責任を果たしたいと考えて立候補し、現在に至るという形です。

長野市長になって約2年になりますが、市政ですからスポーツだけではなくさまざまな声に耳を傾けながら運営を続けています。

スポーツと政治。やっていることは確かに違いますが、目標(政策の実現)に向かって進んでいくという意味では一緒だと思っています。

「長野市」産をPR、ブランド力と生産力の向上を図って

編集部 サイトのコンセプトが「スポーツ」と「食」にあるので、市長のスポーツ行政、農政に絞って話をうかがいたいと思います。まずは農政から。

長野県は日本でも有数の農産地で、中心都市である長野市が持つ生産力の維持・向上、そのために市長がどのように考えているかをお聞かせてください。

荻原市長 生産力の維持・向上の点で取り組むべき課題は2つあります。生産者の高齢化と気候変動への対応です。

生産者の高齢化(に伴う農業人口の減少)は、長野市に限ったことではありませんが、市内でも顕著に表れています。生産量の多いリンゴ農家はまさにその傾向にあります。

これはつまり、今後後継者がいなくて離農する事態が続くと、長野市産農作物の生産力は落ちていくことになります。その点、非常に危惧しています。

これに対しては、若い世代の方たちが長野市で農業をしてくれるような態勢を作ることが必要です。長野市の中でも休耕地が増えてきているので、後継者がいない、離農しようと考えている農家の方と、(市内外問わず)農業をやりたい若い方たちをマッチングし、農地を貸し出し集約化していく。農業人口を増やす政策を積極的に進めているところです。

もう一つの課題、気候変動への対応。山間部の長野市でも、温暖化の波は押し寄せて来ています。長野市って意外に暑いと感じましたよね。

世界的に年間平均気温がどんどん上がっていきますが、長野市も例外ではありません。今は、長野市特有の気候を利用した野菜や果物がたくさん生産され、みなさんの家庭に届いていると思います。

しかし、この先温暖化が進んで行くと、野菜や果物が生産できなくなる事態も想定されます。その時になって対応しては手遅れになるので、気候変動に合わせた長野市の新たな農作物・特産品を創出していくことを今から考えていかなければなりません。

産業的に見ても長野の農業は非常に生産額も大きいですから、主力産業をしっかり守り続けるために、将来的なビジョンも含めて真剣に考え始める時期に来ていると捉えています。

まだ始まりの段階ですが、やはり食というのは、私たちの健康を考える意味でも重要なので、農産物の宝庫である長野県で、市政を預かる者としては将来に向けて舵を切っていきたいと考えています。

長野市産の果物をPRする荻原市長(長野市提供)

その意味で、私が積極的におこなっているのは「トップセールス」です。東京をはじめとする一大消費地・首都圏の市場へ長野市のおいしい物を持って行って、「ぜひ取扱量を増やしてくださいね」と売り込んでいます。

実感として「長野市産」の知名度はこれからといったところですね。実は、長野市を含む長野県域のシャインマスカットなど果物の生産量は日本でも有数なんです。私としては、新たな売りとしてPRしたいんですが、「長野市で獲れたから本物・おいしい」というブランド化までには至っていません。

例えば、青森県はリンゴの生産量日本一。津軽リンゴなどは、地域と農産物が組み合わさって一つのブランドとして確立されていますよね。長野市産の果物も、ここまで持って行ければ市の農業の活性化につながると考えています。

もちろん、長野市のリンゴが一番おいしいと思っていますし、リンゴなど他の農産物も同じように付加価値をつけて、おいしさ・魅力を強調し、みなさんの手に届くようにしていきたいですね。

私がトップセールスをすることで、長野市産の農産物に興味を持っていただきながら、「こんなにおいしい物を自分でも作ってみたい」と思ってくれる方が増えることを願っています。

私も現役時代、数えきれないほど長野市の食を堪能してきました。米もそうですし、とにかく全部がおいしい。だから、みなさんに知ってほしいですし、知ってもらうことで長野市の農業に活力を与え、元気にしたい。そう思いながら日々を過ごしています。

スポーツが楽しめる長野市へ、環境の整備着々と

戸隠スキー場開きであいさつする荻原市長(長野市提供)

編集部 次にスポーツ行政についてお聞きします。長野市は1998年に五輪がおこなわれました。五輪の遺産をどのように残していくのか。キング・オブ・スキーとして長年競技を続けてこられ、政治家として持つ信念を現実のものとするために、どのような政策を施しているのでしょうか。

荻原市長 長野市は冬季五輪を迎えた地なので、競技種目の一つであるスキーは大切にしていかなくてはなりません。

私が市長に就任した後、長野市内の小中学生は戸隠スキー場のリフト券を無料にすることを提言しました。これは、市の予算(税金)で賄うことになりますが、市議会にも「それはやっていこう」ということで賛同していただき、今年の冬で3期目に入ります。

五輪が開催された長野市に生まれたのだから、子供たちにはスキーをやってもらいたいんです。スキー界の問題として「競技人口が減少傾向にある」と指摘しましたが、そもそも子供の時にスキーやスノーボードなどの楽しかった体験がないと、大人になってもスキー場には戻ってきません。

子供の時に楽しかった体験があれば、親になった時、子供に「スキーをやらせたい」「スキーを楽しんでもらいたい」という発想にもつながってくると思うんです。

将来的なリピートを考えれば、まずは市内の子供たちには、スキーをする時にお金がかからないような環境を整える必要がありました。競技人口の増加はもちろんですが、スキーを楽しむために長野市へ訪れやすい環境を作る意味でも、重要な政策と認識しています。

比較的高地で自然豊かな長野市は、スポーツをする環境としては抜群だと思うんです。ですから、スポーツを楽しむ人たちのために、市内のグラウンド整備にも着手しています。

長野Uスタジアム(AC長野パルセイロのホームスタジアム)の東側の土地を市が買い取って芝生グラウンドを3面作り、子供たちがスポーツを楽しむ場所を提供します。

また、2019年の東日本台風災害時には、千曲川や犀川の河川敷グラウンドが水没してしまい、長い間使えなくなってしまいました。せっかくスポーツを楽しみたいのに場所がなければ意味がありません。ですから、市の予算を投じてでも整備する必要がありました。

子供の時に楽しむ→競技をやってみよう→大人になってからも楽しむ。このようなサイクルを作れれば、レジャーと競技を両立できる体制になると考えていますので、将来のためにいろいろと手を打っている段階です。

あとは、長野市におけるスポーツ振興への投資も積極的におこなっていきたいと考えています。

ホワイトリング(長野五輪フィギュアスケートなどの会場)は、体育館レベル(運動をすることにのみ特化した建物)からアリーナレベル(体育館に観覧・照明設備を強化した建物)にまで引き上げるべく、2024年から改修していきます。

スポーツをする人だけでなく、スポーツを観て楽しむ人のための環境も整備しなければなりませんからね。アリーナになると、照明設備のバリエーションが増えるので、例えば、プロバスケットボールの試合などでは、NBAのように観客を盛り上げる演出も可能になります。

試合以外でも楽しめる要素があれば、新規のファン獲得にもなりますし、対戦相手のファンも訪れやすい。人が集まることで、長野市内での消費にもつながっていきます。

課題はたくさんありますが、市民のみなさんに納得していただきながら、エンターテインメント性を高めたスポーツの在り方を考えつつ、経済の活性化やまちづくりをしていきたいところですね。

健幸増進都市・長野を実現するために食と運動を

ラジオ体操に参加する荻原市長(長野市提供)

編集部 長野県は全国トップクラスの長寿県で、長く幸せな生活を送るために健康増進を推していらっしゃるそうですね。

荻原市長 〝健〟康であれば〝幸〟せということで、「健幸増進都市」をスローガンとして掲げています。

健康にもいろいろあると思うんです。体が丈夫だとか、病気をしないとか、心が落ち着いているとか。これらに加えて、地域社会の健全性、そして経済が元気であるということなどを通じて幸せを感じられるまち。長野市が進んで行く道筋を示すために、就任当初から訴え続けています。

食でいえば、長野県は漬物文化が根づいているので、昔から成人の塩分摂取量が多めだったんです。健康の観点から少し問題があるとして、行政が減塩運動を推進し、平均寿命が全国一になったともいわれています。

実際に、市の政策の中には「食習慣を改善しましょう」「成人病予防のために運動をしましょう」というのが盛り込まれているので、保健所を中心に市の関連機関が注力しているところでもあります。

長野市は農産物が多いですし、おいしい物がたくさんあります。さらに、自然で空気の良い環境で食べれば、心が健康にもなると思います。

健康のカギになる運動については、私が肝入りにしている活動があります。それは、ラジオ体操です。実は市長になる前から続けていて、長野市でも普及させたいと考えています。

ラジオ体操は、意外と運動量があるんですよ。早朝の1日1回、子供から高齢者まで同じ時間、同じ場所に集まって続けていけば、習慣化されてくる。そうすると、就寝時間も決まってくるので、運動もできて規則正しい生活を送るきっかけにもなるんです。

健康のために体を動かすのが主な目的ですが、ラジオ体操には地域コミュニティを形成するという側面もあります。例えば、毎日来ていた人が突然来なくなれば、「あの人どうしたんだろうね」と心配して様子を見に行く。毎日来ていれば、「今日も元気だね」と自分以外の人への気配りができるようになる。地域の見守り機能とでもいいましょうか。

このことからも、ラジオ体操の普及は市民の習慣づくり、健康づくりにとても役立つと考えています。私も、ラジオ体操をしているコミュニティに参加することは多々ありますが、「市長、私たちの所に来てください」と言われれば、喜んで行きます。私を呼ぶのにお金はかかりませんからね(笑)。

市民のみなさんに元気を分けることは、スポーツ界出身の私だからこそできることと考えています。さまざまな要素を加えながら、健幸増進都市・長野をぜひ実現し、市民のみなさんが暮らしやすいまちを作っていきたいですね。機会がありましたら、魅力たっぷりの長野市へぜひお越しください!

松代藩真田十万石行列に「真田幸道(3代藩主)」役で参加する荻原市長(長野市提供)
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編集部