指導者たちが選手育成、チーム強化のためにどのようなことを考え、取り組んでいるのかを追求する連載企画「指導者たちの心得」。

第5回目は、伊那西高校(長野県伊那市)新体操部を日本一に導き、現在は日本女子体育大学で指導する橋爪みすず監督の心得。

橋爪監督は、地元・長野県の新体操界を強化したいと志し、ジュニアからの一貫指導、食とトレーニングを科学的に取り入れ、選手・チームを強化してきた。

前編は、橋爪監督と新体操の出会い、選手との向き合い方や指導の苦悩などを中心にお伝えする。

音楽を選ぶか、運動を選ぶか

橋爪監督が新体操を始めた昭和50年ごろはまだまだ新体操を小さい時からできる環境になく、多くの選手は高校生から競技を始めるのが当たり前だった。

「4歳の時からピアノ、小学生からはクラシックバレーと音楽に熱中していましたね。生まれつき左耳が不自由で、両親が音を感じられるようなことをしていれば、ハンデは少なくなると考えていたようです。その影響で音楽が好きになり、身近な存在でした」

音楽性を育みながらも、行動的で活発、運動も大好き。当時、体操界で一世を風靡したナディア・コマネチ(ルーマニア/アメリカ)に憧れたことから、器械体操に興味が移っていた。長野県立蟻ケ崎高校(松本市)に入学した際に教諭から誘われたこともあり、新体操を始めることになった。

「当時の長野県は、やまびこ国体(1978年)の開催をピークに、スポーツ熱、新体操熱も下降気味。長野県勢は国体以降、全国大会でも下位に甘んじていました。私自身、3年間新体操に心血を注ぎましたが、全国大会に出ることはありませんでした」

ただ、新体操の魅力を感じるには3年間は十分な年月で「選手として頑張りたい」「長野県の新体操界を盛り上げたい」と、恩師の出身校で新体操の強豪・日本女子体育大学で体育教諭の資格取得のための準備、選手としてさらに技を磨くことにした。

なお、橋爪監督は新体操に熱を入れつつ、高校3年生までピアノのレッスンを続け、その腕前は音楽大学への進学を促されるほどだった。

音楽性を持ちながら新体操と向き合う、唯一無二の存在に

大学4年間で、教員免許の取得を目指しながら、選手として活動する日を思い描いていた橋爪監督。

「選手として頑張ろうと思って大学に入りましたし、団体の選手の一人に選ばれることを目標にしていました。ところが、入部して間もなくじん帯を断裂してしまって。順調にスタートすることができなかったんです」

いきなり出鼻をくじかれた橋爪監督だったが、幼少から続けていた音楽が自身の新たな立ち位置を示すことになる。

当時の新体操は、演技で流れる音楽を生で演奏しており、指定された曲をピアニストが奏でる形だった。音楽に親しみ、新体操と真剣に向き合っていた橋爪監督だからこそできる役割が見つかったのだ。

「ケガをしている間は裏方に徹していました。選手がやりたい演技のイメージを共有し、芸術性を高めた“作品”を作り上げていく。

そのためにディスカッションしましたし、完全オリジナルの楽曲を提供したりしていました。もちろん、演技の時はピアノを奏でました。やはり、演技がわかっている人間が演奏した方がいいですからね」

大ケガから復帰し、レギュラーにも選出されたが、曲を作り、奏でることができ、演技の創作もできる人材は自分しかいないと悟り、1年生の冬に学生コーチへ転身した。

「ケガがなければ、指導者の道を進むことはなかった」と振り返るように、現在の道を決定づける出来事だった。

長野県の新体操を全国トップへ、挑戦は始まった!

大学4年時に受けた教員採用試験で合格し、故郷・長野県安曇野市の県立高校に赴任。赴任当時はバレーボール部の顧問をしていたが、新体操をしていた橋爪監督のことを知った生徒たちから、「どうしてもやってみたい!」と声が上がり、時間外で新体操も教えることにした。

「やる気と情熱に満ちた選手たちに触れ、その熱意に応えようと思いました。練習場所がなかったので、グラウンドの片隅で、トレーニングや新体操の基礎を教えていました。

やる気に満ちた彼女たちはみるみる上達していって、試合に出るといい結果を残しました。結局、在任中はバレー部の顧問と新体操同好会の顧問を兼務することになってしまいました」

4年間、顧問と同好会を兼務した後、伊那弥生が丘高校(伊那市)へ転任。同校は過去にインターハイ(IH)出場経験のある古豪で、新体操歴のある橋爪監督は再建を託された形になった。

「伊那弥生が丘は、練習環境が整っていたので何とかレベルを上げたいと意気込んでいたんですが、なかなか人材が集まらなくて…。

何かを変えなければ、長野県勢が上位進出、全国優勝なんてできるわけない。そう考えた末に、ジュニアからの一貫指導が必要と考え、1991年にクラブチーム「ポーラ☆スター」を立ち上げました。27歳の時ですね」

橋爪監督は、自作のチラシを配って募集をおこない、初年度には20人が集まった。週1回、地域の子供たちを集めて指導を続け、1年後には60人に増加。活動に手応えを感じていた。クラブ出身の選手たちは、高校生になったら弥生が丘へ進むというサイクルもでき上がっていた。

「弥生が丘は、県立なので推薦はなく、勉強もしっかりやらなければいけません。だから、私も子供たちと一緒に机に向かっていたものです。新体操を教えられること、子供たちが目の前にいることで、毎日が充実していましたし、楽しかったので、大変と感じたことはありませんでした」

橋爪監督の情熱にほだされた選手たちの父兄は、自主的に保護者会を組織し、交通費や練習場の確保などをサポート。クラブが発足して30年以上の月日が経つが、選手、指導者、保護者の三者で結ばれた強固な信頼関係は今でも変わらない。

クラブ立ち上げから5年(1996年)。橋爪監督がまいた種はやがて芽を出し、弥生が丘はIHへ出場。団体総合8位と長野県勢としては大きくジャンプアップした。

「平成8年8月8日の8位…8並びで今でもよく覚えています。チームを強化するために、全国の強豪校に武者修行へ赴いたこととか、弱小校なのに合同合宿を依頼するとか。いきなり学校に訪れて『何だ、この子は?』と思われたかもしれませんね。いろいろなことを思い出しました」

〝無名校〟がいきなり好成績を収めたことから、指導方法を探るために今度は橋爪監督の下に練習見学へ訪れる指導者もいた。ジュニアからの一貫指導を見たある指導者からは「あなたはきっと日本一になる」と励まされたという。

翌年からは連続してIH出場を果たし、最高位の6位を記録するなど頂点まで手が届くところまで来ていた。順調に進んでいる一方で、橋爪監督の頭を悩ます問題もあった。

「弥生が丘で新体操をするためには、ある程度の学力がないと進学できないんです。子供たちは勉強も一生懸命するんですが、それでも高校受験に失敗してしまうことがあります。それが何年か続いた時があって…。新体操をやるために、人生が狂うことになってはいけないと考えるようになりました」

新体操を真剣にやりたい選手たちの気持ちと現実。その間で葛藤を覚えていた矢先、「日本一の美しい高校を作りたい」という理念を持っていた私立伊那西高校(伊那市)から声がかかった。「私立校なら推薦制度がある…」。

橋爪監督の下で新体操をやりたい選手たちの思いに応えるため、2003年に伊那西へ異動することにした。苦渋の決断だった。

私財を投じて、選手たちの練習環境を整備も…

学校が変われば、当然環境も変わる。橋爪監督は、上をめざすために弥生が丘以上の練習環境を整えようと考えていた。校内施設は毎日使えないので、以前から使用していた体育館を本拠地に、定期的に練習できるように確保した。

「一からまた作り直す形にはなりましたが、新体操に真剣に取り組む子供たちが安心して受験し、入学できる体制を作れたのが一番大きかったですね」

伊那市以外の選手たちが新体操に集中できるように、私財を投じて本拠地近くに寮を建てて寝食を共にした。また、寮で生活をしない選手たちのために送迎を毎朝・夕おこない、往復約150kmの道のりを車で飛ばした。さらには、早朝から選手たちの弁当まで作っていたため、睡眠は2~3時間しか取れなかった。

「子供たちのためとはいえ、教員として授業を持ち、練習でも送迎でも常に一緒。寮に帰れば私がいる。これでは、子供たちが休まる暇はありません。

こうしたストレスから、子供たちがルールを守らなかったり、減量がうまくいかなかったりしたことがしばしばあって。良かれと思って生活を共にしましたが、お互いのためにならないとすぐに気づきました」

環境づくりに苦慮しながらもIH出場は続き、県内のトップ校として年を追うごとにクラブ出身の選手、技術に優れた選手が伊那西に集まってきた。

そして、いよいよ団体戦でも全国優勝を狙えるメンバーがそろい(2008~2011年ごろ)、当然橋爪監督の指導にも熱が入った。しかし、〝最強世代〟をもってしても団体6位が最高。目標の達成には至らなかった。しかも、2012年には続いていた全国行きも途切れてしまう。

「あのメンバーで勝てないなら、もう無理なのでは?と落胆しました。寮を建てた、送迎もした、食事も作る。こんなに一生懸命指導しているのに、何で結果が出ないんだろうと思うわけですよ。

でも、子供たちのためにやっているようで、実はすべて自己満足。選手に自己中心的な考えはいけないといいながら、一番それに捉われていたのは自分だったんです。これでは、子供たちに思いが届くわけありません」

思わぬ低迷は、これまでおこなってきた指導方法、選手たちへの接し方を改めて考えさせる契機になった。

高松学園 伊那西高等学校

長野県伊那市にある伊那女子高等学校を前身とする私立校。1966年に創立した。

「和顔愛語(和やかな顔、美しい言葉)」を校訓とし、自立した女性を育てるべく教育をおこなっている。普通科と進学科が併設し、国公立、看護・医療などの専門大学への進学をサポートする。

スピードスケート女子500m金メダリスト・小平奈緒は同高卒業。新体操、スケート、陸上などの部活動が盛ん。

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編集部