データでみる長野県

◆総面積(2021年):135万6156km2 <全国4位>
◆総人口(2022年):202万人
◆年平均気温(2021年):12.9℃
◆平均寿命(2020年)
男性:82.68歳 <全国2位> 女性:88.23歳 <全国4位>

◆主な都市(人口5万人以上):長野市、松本市、上田市、佐久市、飯田市、安曇野市、塩尻市、伊那市、千曲市、茅野市

◆主な河川・山・湖:千曲川、犀川、奥穂高岳、槍ヶ岳、御嶽山、乗鞍岳、諏訪湖、野尻湖

◎総務省統計局・社会生活基本調査からみる県民性(2021年)
◆趣味は園芸・ガーデニング!:32.3% <全国2位>
◆食事時間はゆったりと:1時間45分 <全国2位>
◆料理に積極的!?:20.1% <全国4位>
◆イクメン多し!? (男性の子育て参加時間):2時間17分 <全国6位>

長野県で獲れる農産物

【参考資料】
・総務省統計局 ・政府統計の総合窓口「e-Stat」
・長野県「県政情報・統計」

歴史検証に大きな役割を果たしたあの遺跡

野尻湖のナウマンゾウ(の像)

長野県域には、多くの遺跡が点在している。中でも「野尻湖」「ナウマンゾウ」のワードから「あ、歴史の授業で聞いたことがある」とピンとくる方は多いだろう。

1948年に野尻湖畔の住民が湯たんぽのような物を発見。後にナウマンゾウの臼歯である可能性が高まり、本格的な発掘調査が始まった。
現在まで続く調査から野尻湖遺跡群では、ナウマンゾウの骨格・動物の化石、骨製スクレイパー・ナイフなどの骨器などが見つかり、当時の生活ぶりを知る上で歴史的な役割を果たしている。

長野県の旧国名「しなの」は、群生する「シナノキ(科の木)」を由来とする説が有力だが、古墳時代に長野の地を訪れた渡来人(志那=しな)から「科野」としている向きもある。

中大兄皇子(天智天皇)と中臣(藤原)鎌足による大化の改新(645年)で律令制が実施されると、科野から「信濃」へと変わった。領地は現在とほぼ変わらず、信濃国は伊那・諏訪・小県・佐久など当時から存在した地で構成された。

諏訪大社(諏訪市、茅野市、諏訪郡)と並ぶ日本の代表的な神社仏閣「善光寺(長野市)」は同じころに開基されている。

龍虎の覇権争い、寡兵で大軍翻弄した智将…戦いの地・長野

長野県は歴史的にみて、争いと縁が深い地。

鎌倉幕府を開いた源頼朝の父・義朝は、平清盛率いる平家との平治の乱(1159年)に敗れ、源氏は一時没落したが、清盛の死期が近づくにつれ、頼朝を大将とする源氏は徐々に勢力を盛り返していった。

これと時を同じくして、信濃を拠点とする頼朝の従兄弟・木曾義仲が京をめざして挙兵。平家軍を次々と撃破すると、源氏の勢いはさらに増すことになった。その後、源氏棟梁の座を争って頼朝と決裂して敗走・討ち死にしたものの、義仲の快進撃は、頼朝が復権するきっかけになり、開幕の遠因になったともいえる。

戦国時代に入ると、甲斐の虎・武田信玄、越後の龍・上杉謙信が馬産地としても有用な北信濃の覇権を争い、火花を散らした。馬の確保は、無類の強さを誇った両軍の騎馬隊を支えるうえで不可欠だった。

両軍によって5度繰り広げられた川中島(長野市)の戦いは有名。決着はつかなかったが、最終的に信玄が領地を治めるに至った。現実にあったらおもしろいが、「龍虎相打つ」の銅像はフィクションである。

戦国末期には、武田家から独立した真田昌幸が上田の地を本拠に、権謀術数の限りを尽くした。防御に優れた上田城に立てこもり、徳川の大軍を2度にわたって撃退した上田合戦はよく知られている。

特に2度目の侵攻時には、真田軍約3000で徳川秀忠率いる約4万の軍勢を足止めし、関ヶ原の戦いに参加させなかったのは智謀にあふれる昌幸ならではの戦術。昌幸属する西軍は敗れたが、長男・信之を徳川家の猛将・本多忠勝の娘(小松姫)と結婚させるなど予防線を張ったことで命脈を保ち、真田家は現在まで生き長らえた。

ちなみに、大坂の陣で徳川軍を苦しめた次男・幸村の名は俗称で、正式には信繁。昌幸のかつての主君・信玄の弟で、軍事・政務に優れながら人望にも厚く、兄を献身的に支えた信繁にあやかって名づけられた。

澄んだ空気と水を持つ「東洋のスイス」

江戸時代が終わって明治になると、日本は海外との交流が盛んになり、多くの産業が興り、発展していった。

明治初期、岡谷地域で製糸業を営んでいた片倉組(片倉財閥)らがイタリアやフランスから導入された製糸機械を独自改良し、生産効率を高めた。独自の製糸技術は全国へと波及し、岡谷地域は富岡製糸場(群馬県富岡市)と並び、日本の製糸業をリード。主要な対外貿易品の一つとして、日本の経済を支えた。

昭和期になり、第二次世界大戦を境に製糸業は衰退していくが、代わりに台頭したのが精密機械や電子産業(時計や光学機器)。空襲などの被害を避けるために、都会の関連工場が次々と長野県へ疎開し、衰退した製糸工場と労働力をそのまま活用した。

戦争終結後、疎開は終わり関連工場は都会へ戻っていくが、技術力は残された。精密機械、電子機器の製造は、空気や水が澄んでいること(ホコリが入ってはいけないなど)が求められるため、条件に合致した長野、岡谷・諏訪地域は一大工業地として発展した。

高地で気候が酷似し、ロレックスやフランク・ミュラーなど高級時計ブランドの本社を持つスイスになぞらえて「東洋のスイス」と呼ばれることもあった。

長野県は古来から、中山道、甲州街道など交通の要衝になっており、1998年長野五輪の開催を機に長野新幹線(のちに北陸新幹線)が開業し、さらに交通の便が良くなった。

観光地が多く存在する長野は宿泊設備も整っており、特にリゾートホテル宿泊数はコロナ以前(2020、2021年除く)の過去10年間平均で毎年約350万人。その人気の高さがうかがえる。

【参考資料】
・野尻湖ナウマンゾウ博物館
・古川貞雄ほか : 長野県の歴史, 山川出版 (2003年)
・笹本正治 : 武田・上杉・真田氏の合戦, 宮帯出版社 (2011年)
・長野県教育委員会「信州の歴史」
・信濃毎日新聞社 : 長野百科事典 補訂版, 信濃毎日新聞社 (1981年)
・農林水産省
・観光庁

スポトリ

編集部